1. 雪明り (1967年頃執筆)



雪明り



 兄の敬一の後に続いて、乙吉が凍てついたプラット・フォームに降り立った時、頬っぺたが切れるような寒さを感じた。ストーブの腹が赤くなるほど加熱されていた車中と、この星空の下の夜気とが、あまりにも違っていたのだ。
 駅員がひとり改札口に立って、乙吉たちの近付いていくのを物めずらしそうに見ていた。背後で汽笛が鳴って、蒸気音が空気を震動させたが、乙吉にはそれがいかにも金属的な、硬い響きに聞こえた。車中ずっと汗ばんだ右の手に握りしめてきた切符を駅員に渡し、閑散と静まりかえった待ち合い室(裸電球にぼんやりと照らし出されたそこは、何と寒々としていたことか)を通り抜けて、再び外の闇に出た時、かなりスピードを上げたらしい列車は、もう一度別れの挨拶を乙吉たちに伝えた。踏みかためられてツルツルする道を、転ばぬように爪先に力を入れて歩きながら振り返って見ると、列車はきれいな光の小箱を闇の中に転がしながら、段々と遠ざかって行くところだった。数歩先を歩いて行く兄の敬一も同じく振り返ったが、力づけるように一声「さぁ急ごう」と言った。ふだんは喧嘩ばかりしているこの兄弟にも、夜は不思議な親和力をもたらしたようである。このような雪原の中の夜なら、なおさらのことらしい。乙吉は「うん」と答えて、今さらのように兄の存在を頼もしいものに思った。
 この萩が丘というのは、十勝平野の真中にある帯広市から分岐する士幌線沿線の駅の名前で、終点はそこからさらに四つほど行ったところなのだから、かなりの田舎である。北海道で言う田舎とは、文字通りの田舎で、内地のそれとは語感も違うし、実際も大いに趣を異にする。第一、内地の田舎の、あの人間臭さはなくて、一種荒涼とした気配がある。 萩が丘村も(いかにも北海道らしいロマンチックな名だ)駅の周辺に数えるほどの民家が散在するだけで、内地の村という感じはさらさらない。どうしてこんなところに駅があるかと言えば、くわしいことは知らないが、少し山の方に鉱山があったかららしい。もっともそれも現在は廃鉱になっている。
 その鉱山からさらに道を登って行けば、勢多という部落があり、乙吉たちの祖父母が住んでいた。祖父母の故郷は、福島県相馬郡小高町大田和という在でかなりの田畑山林を有する資産家だったが、祖父は当時流行していた株に手を出して失敗し、一切を手放さなければならなかった。乙吉はある時、没落以前の安藤家の屋敷を撮った写真を見たことがあるが、なるほど相当大きな家だったらしい。現代風に言うなら、それは三階建てであり、部屋の数は数十、年中客人の絶えたことがなかったそうだ。その写真は、おそらく家の側面から撮られたものらしかったが、縁側に立っている三人ほどの姿が、顔の見分けがつかぬほど小さく見えたのを憶えている。
 没落後もそこに居続けることに気がさしたのか、入り婿であった祖父は家財をたたんで、北海道に入植した。それがいったい何年ほど昔のことなのか乙吉は聞きただしてみたことがないので知らない。一時期、祖父たちも乙吉の家族や他の叔父叔母の家族同様、帯広市内に住んでいたが、戦局がけわしくなってくると同時に、疎開の意味も含めて、持ち山を守るために、この勢多に引き籠った。その少し前、乙吉の家族は満州に渡っていたが、そこで乙吉は父を失った。乙吉の母は三人の子供(敬一と乙吉の間に、幸子がいる)を連れて、終戦後やっと帯広にたどりついた。幸い祖父母の持ち家が市内にあったので、家に困ることはなかったが、なかなか職が見付からず往生した。しかし母は、ある伝があって十勝支庁の教育課に勤務することができた。
 人っ子ひとり通らぬ山道を、月明かりと雪明かりを頼りに登ってゆくにつれ、最初に感じた痛いほどの寒さは薄らいでいったが、心細さはいよいよ募ってきた。小学六年と二年の子供が、夜の十時を過ぎたころ、こんな寂しい山道を行くのは、今から考えるとかなり異常だが、あの頃は食料事情が逼迫していたので、そう不思議なことでもなかった。つまり二人は今、祖父母のところまで食料をもらいに来たところなのである。土曜の夕方、帯広を立って萩が丘に夜十時につき、翌日はもう昼過ぎに山を降りる予定で来たのだ。しかし、なぜもう少し早目の汽車に乗らなかったのか、今はもう思い出すことができない。きっと、どうしても早目の汽車に乗ることのできない事情があったに違いない。おそらく、食べ物が底をついていることを急に思い出して、急いで最後の汽車に二人を乗せなければならなくなったのであろう。
 この前来たのは、同じ年の秋で、その時は野葡萄がところどころになっており、山のいちばん楽しい頃であった。車窓から眺めた時、目的の山は日に輝いてかなりの近さに見えるが、つづら折りの山道を行く時には、その山が見えたり隠れたり、いつまでたっても近付いてこないのであった。しかしそれにしても秋の山は楽しい。こんもりと繁った森、ふいに足元から湧きのぼってくるような小川のせせらぎ、時おり山道を驚いたように横切っていく栗鼠の姿、聞いたこともないような不思議な鳥の声、ひんやりとした山の空気。そして遠くに祖父母の家から立ち昇る夕餉の支度の青い煙が見えてくる時の胸のときめき。
 しかし冬の山は違う。だいいち、あれほど親しかった山道の姿が、まるで別物のように冷たい白一色になってしまっている。
 月は皓々として、冷酷なまでの光を天空に放っている。時おり自らの重さで梢から落ちる雪の音の外、なにも聞こえない。あとは、自分たちの踏みしめるギュッ、ギュッという音だけだ。
 途中一か所だけ、数軒の家がかたまっているところがある。道端に近く製粉工場があり、日中はのんびりと機械の音を周囲に響かせているが、今はひっそりと静まりかえって、気味が悪いほどだ。どこかの飼い犬が、はげしく吠えたてたが、追ってくるようなことはなかった。
 背中にしょったリュックサックは、まだから同然だが、それでもいつしか重さが肩に感じられた。それと同時に、体中が汗ばんできて、特に背中のリュックに当たっている場所が熱くなってくる。
 わずかに馬橇に踏み固められただけの道路は、なかなか歩きにくかった。こんもりした森の中を道が縫っているようなところでは、巨木から垂れた枝々が道をまるでトンネルの中のように薄暗くした。とつぜんバサッと雪の固まりが首すじに落ちてきたときなど、恐怖で体が硬直した。
 二人とも一言も口をきかなかった。話せばそれだけ自分たちの孤独感が浮き彫りにされるような気がしたからだった。あるいは言葉が吐き出されるやいなや、それが真っ白な物の怪のように凍りついてしまい、ゾッとするような一瞥を自分たちに投げかけるのではないかと恐れたからである。
 歩幅の違いからか、どうしても乙吉の方が後になったが、何物かに後ろから襲われるのではないかと心配になり、しきりに振り返ってみた。道には相変わらず人っ子ひとりいない。それでも恐怖はいっこうに消えてゆかない。それで小走りに兄の前に出てみるのだが、今度は後ろからついてくる兄の足首が変に気になってくるのである。 
 怪談なんかによくあるように、兄の顔が突然のっぺらぼうになっていはしまいか、あるいは長い髪をざんばらにした雪女に化けているのではないかなどと、あらぬ妄想が次から次へと襲ってくるからだった。

 しかしどうして、あのようなものがあんなところにあったのか。いや、実際にあったのか。単なる妄想にすぎなかったのではないか。でも乙吉だけにではなく、兄の敬一にもあれが見えたことに、だれが納得ゆく説明をしてくれるというのか。
 あれはちょうど林のようなところを抜けて、視界が急に開けたところだった。右側はかなり広い台地となり、それがわずかな起伏を持ちながら山裾へと下っていた。左側はちょうど屏風のように切り立った崖になっていた。ただ崖といっても、たかだか五、六メートルほどの高さしかなく、それもゆるやかなカーブを描いて、すぐ道に降りてきていた。
 乙吉たちがそこを通りかかったときである。乙吉が何気なくその崖を見上げて、そこに異様なものを見たのだ。傾斜が急であったにもかかわらず、そこにも雪がしがみつように積もっており、まるで白い大きな壁のように吃立していた。その岩肌に、乙吉はひとりの裸女の絵を見たのである。絵というより、雪に彫られたレリーフと言った方が適当かも知れない。それが月の光と、雪それ自体が持つ光とに照らされて、えも言われぬ神々しい姿で立っていたのだ。乙吉は思わず立ち止まってしまった。敬一も止まった。
 いったいだれがこんなところに彫ったのだろう。山の中にこれほど見事な絵を描く芸術家がいるはずがない。ふと立ち寄ったどこかの絵描き、あるいは彫刻家が、気まぐれに彫っていったのだったか。二人は呆然と立ちつくした。裸女を見る恥かしさなど、これっぽっちも二人の頭には浮かばなかった。事実そこには、いかなる猥褻感も下品な調子もなかったのだ。すべてが冷たい大気の中で、神々しさを発散しているようだった。まるで、この凍てついた冬空から、下界に降り立った天女のような裸女の立像だった。
 どのくらい時間が過ぎたか分からない。が、二人はとつぜん我に返った。そしてお互いの顔をなるたけ避けるようにしながら、相手の動静をうかがった。やはり恥ずかしさが襲ってきたのだ。それと同時に、寒さが急に身に沁みて感じられた。そしてどちらからともなく、また歩きはじめた。
 しかし乙吉は今見た光景のことで、頭の中がいっぱいになり、カッと血が頭にのぼってくるのが分かった。しかしどうしてあんなところにあんなものが……狐につままれたのではなかろうか。
 また小川のせせらぎが聞こえてきた。道がふたたび川にそいはじめたのである。小さな木橋が夜目にもはっきりと見えてきた。祖父母の家はもうすぐだ。
乙吉は、この不安な道行きがあとわずかで報われるのだと心の一方で喜ぶと同時に、あの恍惚の時が今にも現実の時によって跡かたもなく消されてしまうことに、言いようのない不満のようなものを感じている。おとぎ話や物語の中にかいま見るだけだった世界が、自分にも微笑みかけていたのに、今またこうしてつまらない、味気ない日常の世界に帰って行かねばならないのだ。
 「ばあちゃんびっくりするぞ」と敬一は息をはずませて叫んだが、乙吉はその兄の言葉にもある種の不満を感じている。分かってくれないんだなぁ僕の気持ち。乙吉は、しかし、そんな心の動きにもかかわらず、自分の体が心にもなく踊ってきたことにとまどっている。頬がひとりでにゆるんできて、いまにも笑い出しそうなのだ。
 大仰な祖父の驚きと喜び、心配症らしい祖母の感情をおさえた温かな歓待、いつものようないつもの言葉のやりとり。乙吉はやはり来てよかったと思った。温かな雑炊を口いっぱいにほうばりながら、乙吉はほんとうに安心していた。しかし祖父母や兄にかこまれて、湯タンポがわりの焼いた石の心地よい感触を足裏に感じながら寝についたとき、乙吉はふいに先ほどの奇妙な体験がよみがえってきた。皓々とした月の光の下で、あの裸女はまだあのままの姿で立っているのだろうか。乙吉たちの寝ている間に、かぐや姫のように天界に帰っていってしまうのではないだろうか。いや、あれはそこいらの若者がただたわむれに描いた裸の女の姿かも知れない。月の光で自分たちには、それがなんとなく神々しいまでに美しく見えたのかも知れない。   

 翌朝、乙吉たちが目ざめたとき、祖父たちはもう床を離れていた。祖父は山羊小屋にでも行っているらしく、裏の方から「そーら、そーら」などという声が聞こえてくる。祖母はなにやら台所でかたことやっている。顎に当たる部分がヒャッとしたので気をつけて見てみたら、自分の吐いた息のために、ふとんがかぱかぱに凍っていた。こんなことは、乙吉の住んでいる帯広ではめったにないことだ。
 午前中は物珍しさも手伝って家のまわりを見物などしてるうちに、いつのまにか昼になってしまった。乙吉は昨夜のことを忘れていたわけではない。わずか十分ほど下ってゆけば、昨夜の場所に行ってみることができたが、なんとなく行きそびれてしまった。そこに行ってみて昨夜のことがまったくの夢物語であることも恐ろしいことだし、そこに昨夜のままの裸像が白日の下に輝いていることもなおさら恐ろしいことのように乙吉には思えたからだ。それに、兄の敬一があのことをおくびにも出さないことが、乙吉に行くことをためらわせたのである。
 四時すぎの上り列車に乗るためには、もう二時にはそろそろ帰る準備をしなければならない。
 乙吉たちは、名残り惜しそうに家の前に出て手を振っている祖父たちに、振り返りながら何度も応えた。太陽はまだ高いところにあったが、心なしか山にはもう夕方の気配が漂ってきたようだ。日中ゆるんでいた雪の堆積が、夕方が近付くにつれてミシミシとまた重量を加えていくように思えた。祖父たちはこの人里はなれた山の中で、どうして寂しくないのだろう。寂しいけれど我慢しているのだろうか。今晩も、夕餉の後、いつものように湯タンポがわりの石をストーブの上に乗せるだろう。そのような光景までもがありありと頭に浮かんでは消えた。
 とうとう曲がり角がきて、そこを左に折れると、もう祖父たちの姿は見えなくなってしまう。しかし乙吉は別れのどさくさに忘れていた、もうひとつ大事なことを思い出した。そうだ、もう少し行くとあの場所に出る。昨夜、わずかの時間だが乙吉たちに訪れたあの夢幻の世界への入口。乙吉はトントンと急速に打ちはじめる胸の鼓動を感じた。胸がしめつけられるような気がした。乙吉は、そっと敬一の方をうかがったが、リュックの紐が気になるのか、しきりにうしろに手をやっていた。乙吉は思った、もしも、あの場所に来て敬一がなんの反応も示さないとしたら、昨夜のことは乙吉だけの幻想に違いない。しかし、なにかを期待するような身振りを見せたら、確かに敬一も昨夜の裸像を見たのだ。
 高い山の背が太陽の光をさえぎるところには、まるで北海の深い底のように、冷たい空気が淀んでいる。もうすぐ例の場所だ。乙吉は素早く前方に目をやった。しかし青白い崖の表面には何も見えない。乙吉は今にも駆け出していきそうな自分を押さえ押さえ歩いていった。もう少し近付いたら見えるかも知れない。
 しかし、乙吉たちが例の場所の真ん前に来てみても、それはただの白い崖であった。日中の暑さで溶けてしまったのだろうか。それにしても少しの痕跡でも残っていそうなものではないか。
 乙吉は思わず立ち止まってしまった。敬一の挙動を観察することなどまったく頭に思い浮かばなかった。心のどこかでこのことを予期していたとはいえ、やはり乙吉は驚いていた。大きな失望が襲ってきた。せっかくつかみかけていたおとぎの国への入場券が、反古同然のかたちで乙吉の手に残った。いや、反古でもいい、昨夜のあれが夢でなかった証拠になるものならなんでもいい。
 しかし、白い壁は無情な顔つきでなんの答も返してくれない。やはり夢だった、寒さと夜の神秘がはかった気まぐれに過ぎなかったのだ。
 しかしそのとき、乙吉は敬一もやはり何かを探す目つきで崖を見上げているのに気がついた。するとやっぱり……乙吉は急に暖かいものが胸を満たすのを感じた。敬一も昨夜の裸像を見たのだ。乙吉は百万の味方を持ったような気がした。急に兄の敬一が親しい存在に思われた。
 敬一は乙吉の視線に気付くと、決まり悪そうににっと笑った。乙吉も笑い返した。
 「さあ、急ごう、乗り遅れたら大変だ」と敬一は気を取りなおすように言った。
 「うん」乙吉は今にも泣き出したくなる自分を引き立てるようにして答えた。乙吉は昨夜のことを兄と話してみたかった。しかし、このままそっとお互いの胸の中にしまっておく方がいいことのようにも思えた。そこを曲がればもう祖父の家が見えなくなってしまう地点に来たとき、二人は思いきって曲がり角を急いで降りていった。

 乙吉は後年、あのときのことを時おり思い出すことがあったが、兄に話して確かめることもなかった。ましてや、他の人に話すこともしなかった。
 それは、ちょうどあの日、帰りの汽車の窓から見た青い、気の遠くなるような高い空のような忘却の空の中に、徐々に消えていったようだ。
 乙吉が二十七になったとき、あの頃のことが急に意味を持ちはじめた。そしてそれを書いておこうと思い立った。しかし、書いている最中も、そして書き終わってからも、どうしてもあの夜の不思議は、謎のままに残った。いまさらあのときのことを兄に会って確かめることも気がひけた。
 乙吉は、これでいいんだと思った。夢は夢のまま、メルヘンの世界はメルヘンの世界のままに、大切にしておくべきだと思った。今はそれでなくとも夢のない時代なのだから。



昭和四十二年頃執筆