瓦礫の中で

まるでエアポケットに落ちたように、瓦礫の中のそこだけがしーんと静まり返っていた。収容所近辺で遊ぶことに飽きた兄たちのグループについて街中までついてきたのがそもそも間違いだった。でも今更もう遅い。先ほどから足の震えをなんとか押さえ押さえ、まぶしい日差しの中に立っている。時は秋、場所は錦州。
 しかしどうしてそこにひとり残っていたのだろう。理由はまったく思い出せない。問題はそこにとつぜん二人の満人の少年が現れたことだ。二人が片手に針金状のものを握っていることがどうも気になる。あれを振り回されたらやばい。向こうもこちらをうかがっている。何秒、いや何分か緊迫の時が過ぎた。そして一瞬、年上の方と眼と眼が合ったのである。そのとき、氷が溶けていくように恐怖心が消えていくのを感じた。こちらと同じく緊張はしているが気弱そうな眼だったのである。兄弟と思われるこの二人の少年の身なりは、こちらよりさらにみすぼらしかった。そのころ錦州の町にも増え始めた孤児だったか。
 ともあれ、私が唯一怖い思い出として残っているのが、この瓦礫の中の体験なのだ。『大地の子』の陸一心にとって、その逃避行は飢えと殺戮の危険が隣り合わせのものだったらしいが、少なくとも私にとってそのようなことはなかった。或る夜、収容所に腕に何個も腕時計を巻きつけたソ連兵が乗り込んできたときもさほどの恐怖を感じなかった。個人的に言えば、そんなことより、朝陽駅周辺に屯していた敗残の日本兵に、放尿後のちんちんを触られからかわれたことの方がはるかに悔しく情けなかった(後からバッパさんにどうして一言も抗議しなかったのだと叱られ、なおのこと傷が深まったが)。
 要するに私たちは運が良かったのであろう。しかし敗戦時、満州の日本人が置かれた状況は、総体的に見て決して運だけでは説明できない。つまり日本人に対する怒りや憎しみの底に仄見えた人間的な底の深さ。
 だから(といって論理的に少し飛躍するが)、それが沖縄・朝鮮・中国、あるいはどこか東南アジアの人であれ、日の丸を見たり君が代を聞くたびに体が震えるような人がひとりでもいるかぎり、何十年、いや何百年待とうとも日の丸や君が代を持ち出すべきではないのだ。なに愛国心が無いだと!ざけんじゃない、そう言うてめえより何万倍も俺は日本を愛してるぜ(もっともそれは国家ではなく「くに」としての日本だけど)。
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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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