16. 内側からビーベスを求めて(一) (1991年)



内側からビーベスを求めて(一)



はじめに

  1522年7月、当代随一の人文学者ネブリハが死んだ。本名アントニオ・マルティネス・デ・ラ・カラ(Antonio Martínez de Cala Xarana)。生まれ(1441~4年)はセビーリャ県のレブリハ。だから筆名にレブリハを使ったこともある。言うまでもなくルネッサンス・スペインのもっとも重要な人文学者の一人である。枢機卿シスネロスが企てた多国語訳聖書の編纂を手伝い、またシスネロスが創設した(1508年)アルカラ大学(現在のマドリード大学の前身)という当時のスぺインの人文学研究のメッカの看板教授であった。もちろん彼の独壇場は文献学・言語学の分野である。すでに1481年にロレンツォ・ヴァッラの方法に添った『ラテン語入門』を書いたが、彼の名が一躍知られるようになったのは、1492年8月、ヨーロッパ最初の文法書である『カスティーリャ語文法』をイサべル女王への献辞を付してサラマンカから出版し、帝国の発展のためには武器以上に言葉が重要であると奏上したときである。つまり彼はその時、ヴァッラがローマ帝国はその文学によって今なお存続しているという確信を、完璧に彼自身のものとしていたのである。
 しかしいま彼の死を引き合いに出したのは、ここで彼のことを述べるためではない。その彼の死をきっかけとして浮かび上がってくるもう一つ別の「生」を考えてみたいからである。それというのは、このネブリハの後継者として、当時ブリュージュにいたルイス・ビーべス(1492-1540)に白羽の矢が当たったにもかかわらず、彼ビーべスは結局その申し出をことわったことと関係している。彼のこの意表外の対応をめぐっては、さまざまな憶測がなされてきた。なぜなら、若いときから国外で活躍していたこの人文学者にとって、祖国スペインでの顕職の提供は祖国に錦を飾って帰国する絶好の機会であったはずだからである。
 ともあれ、エラスムス(1469?-1636)、ギョーム・ビュデ(1468-1540)、トマス・モア(1478-1535)と並んで、ヨーロッパ人文主義の四大高峰と称えられた彼の生涯は、この教授職問題にかぎらず、多くの謎につつまれている。といって、彼の生涯が多くの事件に彩られているわけではない。彼の生涯は、アメリコ・カストロの言うあの「葛藤の時代」にあっては、むしろ波風の立たない、平穏な一生だったと言ってもいいだろう。
 しかし彼の内面の「生」は果たしてどうであったか。もしかして遠く国外にあることによって、むしろ「葛藤の時代」の余波をさらに増幅された形で受けていたのではないか。そんな思いに捉えられるのも、現時点で分かっている資料からだけでも、通常は表面に現れてこない彼の「葛藤の生」を推測するに足る材料がありそうに思われるからである。つまり、そのための重要な手がかりの一つが、前述の教授職辞退事件なのだ。
 ところで人間の「営為」全体を「《生》の相の下」に見るという傾向を、はるか黄金世紀以来、 スペイン文化の中枢を流れる通奏低音あるいは主旋律とみなすことができるが、しかしそれが明確な思想にまで高められたのは、言うまでもなく現代スペイン思想においてである。ウナムーノ、オルテガ、そしてカストロなどがその主たる担い手たちだが、しかし後に触れるように、ウナムーノの「生粋主義」論は、スペイン文化の根底に横たわる「血統」の問題にあとわずかなところまで迫りながらも、結局そのカスティーリャ中心主義を抜け出ることができなかった。というより、彼は具体的な「歴史的血統」よりも、スペイン民族の「永遠の血統」という彼一流の神秘主義へと視点を移してしまったと言うべきかも知れない。
  一方、オルテガはと言えば、処女作『ドン・キホーテをめぐる思索』から一貫して「生」を彼の哲学の根幹に据え、ディルタイなどのいわゆる「生の哲学」よりもはるかに厳密に「生の理念」の哲学的解明に努めた。われわれはその成果を『人と人々』などに見ることができるし、またそれを現代社会の病理の分析に応用した『大衆の反逆』や、それを個人的な「生」に応用した「ビーべス論」や「ゲーテ論」のうちに読むことができる。しかしオルテガの場合も、「生の理念」の哲学的枠組みは与えてくれたが、それをスペイン文化の中に具体的に検証する作業は、ほとんどが未完のままに終わっている。事実、「ビーべス論」にしても、「ビーべス自身が一つの新しい地平線であり、中世的生《キリスト教的・ゴチック的世界》と近代的生《自然主義的・バロック的世界》のちょうど分水嶺の上に現れている」という鋭い指摘をしながら、本格的なビーべス論展開の約束を果たさないまま世を去ってしまった。
 私見では、そのオルテガの衣鉢をもっとも忠実に引き継いで、「生の理念」を具体的にスペイン史の中に検証したのが、アメリコ・カストロである。特に彼は、「スぺイン的生」の原型が、キリスト教、ユダヤ教、イスラムという三つの宗教・文化の共生(融合、葛藤)の中から作り出されたものとし、そのいちいちの例を、たとえば従来スペイン文化の華とみなされてきた黄金世紀の立役者たちの中に、彼独自の嗅党をはたらかせて探っていく。結果は黄金世紀の最良の部分にユダヤ系改宗者の血が流れているというショッキングな指摘である。ビーべスも、いまだ資料的に検証される以前に、彼のリストに加えられた一人である。しかしドミンゲス・オルティスの指摘を待つまでもなく、ビーべスの著作にはいっさい「ユダヤ臭」はなく、むしろもっとも正統的なキリスト教思想に立つものである。処女作から遺稿として死後三年を経て出版された『キリスト教信仰の真理について』に至るまで、彼は正統的キリスト教の枠から一歩も外に出なかった。
 ビーべス論の離しさは、まさにそこにある。というよりも、もっと広く言って、改宗者の精神構造を分析する難しさ、あるいは危険は、まさにそこにあるのである。先のドミンゲス・オルティスが言うように(A. Dominguez Ortiz: Los Judeoconversos en España y América, ISTMO, 1978, p.190)、カストロの挙げる改宗者の性格なら、ビーべスにではなく、むしろまぎれようもなく旧キリスト教徒の血を引くケベードの方に濃厚だからだ。したがってカロ・バロッハが言うように、「彼らが表明するあれこれの見解が改宗者のものであると言い立てることは、あらかじめ与えられた一般論を土台にして物事を区分けしていくという実に危険な方法」なのである。サインス・ロドリゲスの次のような指摘は、その意味でまことに正鵠を得ていると言わなければならない。

 「実際、セム系民族の共存がスペインにもたらした諸種族の巨大な混合状態は、議論の余地なき生物学的事実である。むつかしいのは、この生物学的現実からの影響が、ユダヤ系の先祖を持つスペイン人たちの文学的・学問的的産物に、いかなる程度まで波及しているかを知ることである。疑いもなくユダヤ人を先祖に持つビーべスのケースを、その作品の性格ともども考察することこそ、問題の核心に迫りうる鍵になると私が信じるのもそのためである」(Homenaje a Luis Vives, Fund. Univ. Española, 1977, p.12)

 要するに拙論の狙いは、ウナムーノからカストロに至る「生の理念」の生成発展の流れをいま一度検証しなおし、それを援用しながら、具体的にビーべスの「生」を考察すること、特に教授職辞退問題を突破口として、彼の生を内側から見てみることである。しかし今回はとりあえず、そうした作業の足場固めとして、ビーべス自身がどのような生涯を送ったのか、外側から見た彼の生を編年体式に追うこと、そして彼の作品のテーマ別目録を作成することに限定したい。したがって、オルテガの『内側からゲーテを求めて』のひそみにならって、彼が果たせなかった内側から見たビーべス像再構築(の試み)は、拙論の(二)において行なうこととする。



1. ビーベスの生涯


[1492年]
3月6日、バレンシアに生まれた。言うまでもなくその年は、レコンキスタが完了し、コロンブスが新世界を発見した年、そして前述のネブリハが、イサべル女王に、『スペイン語文法』を献上した年である。しかしビーべス個人にとって、それよりも重大なことは、その同じ年、ユダヤ人追放令が出されたことである。つまりビーべス自身、実はユダヤの出自を持っていたからである。ユダヤ系であることが、当時のスペインにあってどれだけの逆境であったか、これは当事者の身にならなければ分からないことだし、そうした位置に追い込まれた人々は、多くの場合、その苦衷を表現することをしなかった。後に触れるが、ビーべス自身も、膨大な量にわたる彼の著作の中で、いや彼の個人的な書き物、たとえば私信、の中でも、いままで知られ得るかぎり、自分の出自については一言も漏らしていないのである。
 彼がユダヤ系であることを、その特有の嗅覚をもって指摘したのは、前述のようにアメリコ・カストロであるが、それを史料的に確認するきっかけとなったのは、ビーべス一家の裁判記録を発掘したサラサール(Abdon M. Salazar)であり、それを出版したピンタ・ジョレンテ(Miguel de la Pinta Llorente)とパラシオ(José Maria de Palacio)である。
 父のルイス・ビーべス(Luis Vives Valeriola)と母のブランカ・マルク(Blanca March)の家系については諸説があるが、現在ほぼ定説になりつつあるのは、父方はマルク家の流れを汲む家系であるということである。つまり有名なバレンシアの詩人アウシアス・マルク(Ausias March, 1397ころ-1459)を先祖に持っているということになる。また名前だけから判断すると、母方とも血の繋がりがあるということになる。

[1493~1508年]
 1501年、父方の淑母 Castellana Guiorte とその息子 Miguel Vives Guiorte がユダイサンテ、すなわち隠れユダヤ教徒の嫌疑を受けて火刑に処せられた。幼いビーべスがこの事件から深い精神的傷痕を受けなかったはずはない。
 彼がどのような初等・中等教育を受けたかはっきりしないが、1508年にはバレンシア大学に入学して、ラテン語やギリシア語、修辞学の勉強を始める。このバレンシア大学というのは、この町の出である教皇アレクサンデル六世によって1500年に設立されたばかりの大学であった。彼の先生の名前もいくつか知られている。まずへロニモ・アミゲ(Jeronimo Amiguet)だが、ビーベスはこの先生の勧めで、ネブリハ批判の文章を書いたこともある(後年、それを後悔するが)。次いでダニエル・シソー(Daniel Siso)の名前がビーべス自身の著作の中に挙げられている(『神の母なる童貞の凱旋』)。
 1508年、ペストがバレンシアの町を襲い、連日死者が300人出たという(1494年にもペストが猛威をふるった)。ビーべスの母がこのとき罹病して死亡したらしい。

[1509~1512年]
 当時の学問の中心パリ大学に移る。しかしそこはラブレーの『ガルガンチュア』に描かれているような退廃しきった学生生活、形式主義に堕した教師たちの講義しかなく、ひじょうな落胆を覚える。彼自身の言葉を借りれば、大学は「いままさに老人性痴呆にかからんばかりの80歳の老婆」であった。
 彼の指導教官の名として、Gaspar Lax と Juan Dullard de Gante の名が知られている。前者は1487年にウエスカ県に生まれ、弱冠20才でパリ大学の教授になった人であり、ビーべスには数学と哲学を教えた。彼が属した学寮についてはボーヴェー(Beauvais)学院という説もあるが、モンテアグード(Monteagudo)学院であった確率が高い。なぜなら当時、学生たちは出身国別に共同生活をするのが習慣であり、特にモンテアグード学院は歴史のある、比較的統制のとれた学寮だったからである。
 ともあれパリでの学生生活の後半には、将来の去就に迷っていたようだ。学究の生活を続けるには確かにパリは便利であったが、軽挑浮薄で騒々しいパリは、彼の性格に合わなかった。そしてそのころ(1512年秋)、それまで何度か訪れたことのあるフランドル地方に次第に引かれていく。とりわけべルギー北部の町ブリュージュにはバレンシア人たちのコロニアがあったことが(おそらく国外に追放されたユダヤ系出身のコロニアと思われる)彼のフランドル移住を決めた決定的要因ではなかったか。そしてこの町で以後深い友情で結ばれることになるクラネヴェルト(Francisco Craneveldt)や、親戚筋に当たるユダヤ系スペイン人バルダウラ(Bernardo Baldaura)を知るところとなった。バルダウラの娘マルガリータ(1505年生まれ)は、後に彼の妻となる女性である。

[1514年]
 パリで最初の著書『イエス・キリストの勝利』を書く。
 このころフランドル地方を訪れていたエラスムスと面識を得たらしい。エラスムスは以後、いくつか確執らしきものをも含めて、ビーべスの生涯に重大な影響を与えていく。
 『宗教的雄弁について』(De religiosa elocuentia)も書いたらしいが全集には未収録。この年の暮れ、最終的にブリュージュ移住を決める。彼は後年、この町について、「私の生まれ故郷のバレンシア同様、ブリュージュを愛する」と書いている。

[1516年]
 ルーヴァンで、トマス・モアの『ユートピア』が出版される。この書はビーべスに未来社会への展望を与え、後の彼の社会学的考察に重要なヒントを与えることとなる。

[1517年]
 ルーヴァンに移リ、シスネロスの後を継いでトレドの大司教になった枢機卿ギリェルモ・デ・クロイ(Guillermo de Croy)のラテン語教師(preceptor)となる。
 『悔悛詩編をめぐる考察』、『ウェルギリウスの田園詩入門』を書く。

[1518年]
 『人間の寓話』を書く (近年、ルネッサンスの人間論の典型として再評価されてきた)。10月著名なブスレイデン(Jeronimo Busleyden, 1470?-1517)の遺志によってブリュージュに「三国語学院」(Collegium Trilinguae)が設立され、ここで教えたエラスムスなどを通じて、新しい人文学の流れがこの町にも入ってくる。

[1519年]
 ビーべス、ルーヴァン大学ハルレス校の講師となる。
 彼の名が人文学者たちのあいだで一躍有名になったのは、この年に書いた『偽=弁証学者論』のためであろう。これは当時の腐敗し切ったスコラ哲学に対する痛烈な批判の書である。
 5月19日から6月3日にかけてパリに旅行。このときビュデを訪問。

[1520年]
 5月、キケロ作『スキピオの夢』の研究を出版。これは彼が激越なウマニスモよりもむしろ哲学や道徳に興味を持ち始めたことをうかがわせる。

[1521年]
 1月、まだ弱冠23歳のギリェルモ・デ・クロイ枢機卿が落馬事故で死に、彼に代わる庇護者を捜さなければならなくなった。8月にブリュージュを訪れたトマス・モアの仲介でイギリス王へンリー八世の妻カタリーナ・デ・アラゴンからの年金が与えられることになる。
 この年、エラスムスの勧めもあって、『聖アウグスチヌス《神国論》注解』という大作を完成(翌年、これをイギリス王へンリー八世に献上)。しかしこれの執筆の過程で健康を害する。
 トレドの人でアルカラ大学教授、エラスムス主義者で枢機卿シスネロスの秘書でもあったべルガラ(Juan de Vergara)の知己を得る。

[1522年]
 7月、卒中のためネブリハ、アラカラで死去(享年79歳)。アルカラ大学では後継者を探すことになったが、前述のべルガラがビーべスを強く推挙。
 9月5日、べルガラ、バリャドリードから手紙で、競争相手がいないこと、年給二百フロリン、住居も提供される旨を伝える。しかし結局ビーべス、それを受けない。
 10月12日、枢機卿ハドリアヌスに『ヨーロッパの現状と騒擾について』を献呈。
 12月1日、そのハドリアヌスがハドリアヌス六世として教皇位に上り、ビーべス大いに期待する。

[1523年]
 1月、『虚飾の真理』を出版(1519年に書いた同名の作品と深い関係にある)。
 2月から4月にかけて、イギリスのウルジー(Wolsey)枢機卿の招きで最初のイギリス訪問。この年から1528年まで、休みのときはブリュージュに帰るなどイギリスとブリュージュのあいだを行ったり来たりする。
 4月5日、代表作の一つ『キリスト教女性教育論』全3巻を脱稿し、スペイン王家の出であるへンリー八世の妃アラゴンのカタリーナに献呈。また王女メアリーの教育指導をまかせられ、彼女のために『児童学習課程論』を書く。
 夏にはブリュージュに戻り、青年たちの思索のための『英知への導き』を書く。これはその内容の教育的・倫理的・神学的価値ゆえに、後に長くイートン校の教科書としてラテン語原文で用いられ、その英訳もビーべスの死後イギリスで出版されたほどである。
 10月10日、オックスフォ―ド大学の博士号を受け、コルプス・クリステイ学院の人文学教授に任命される。

[1524年]
 このころバレンシアではペストの再流行。
 5月26日、ブリュージュで親戚の娘マルガリータ・バルダウラ(Margarita Valdaura)と結婚。
 この年、父が異端審問所によって、火刑に処せられる。
 親友クラネヴェルトにあてた手紙の一節。「スぺインからの知らせはとても悲しいものばかりなので、つい悲観論に傾かざるをえないのです。貴兄に手紙を書いている今もいま祖父の一人が死んだという悪い知らせがとどきました。私がとても愛していた祖父で、自分の家のこと以上に私たち家族のことを心配してきた人なのですが……」。もちろん祖父の死とは真っ赤な嘘で、このあたりにもビーべスの屈折した心情が浮かび上がってくる。
 このころビーベスがバレンシアに一時帰国したという説もあるが確証はない。ともあれこの年は、ビーべスの生涯でもっとも謎につつまれた年であり、彼の「生」を内側から見るためには、ぜひとも解明しなければならない年である。
 11月、イギリスに渡る。滞在は翌年の5月まで。

[1525年]
 5月10日、ブリュージュに帰る。留守を守っていた妻が重い眼病にかかっていた。
 『貧者救済論もしくは人間の困窮について』を脱稿、これは近代最初の福祉国家の構想とみなされ、そのためビーべスが最初の穏健なキリスト教社会主義者と呼ばれることともなった作品である。

[1526年]
 2月、3度目のイギリス滞在。ウルジー枢機卿との関係がまずくなる。
5月、ブリュージュに戻り、ヘンリー八世宛ての二編の平和論を書く。

[1528年]
 2月、エラスムスが『キケ口主義者 (Ciceronianus, sive de optimo genere dicendi)』 を発表し、その中で当時の代表的な学者をリストアップしたが、なぜかビーべスの名を挙げず、両者を知る者たちに奇異の感を与えた。ただしビーべス自身は気にせず。
 4-6月、4度目のイギリス滞在。
 へンリー八世、カタリーナを離縁する。ビーべスは王妃の肩を持つが、実際行動に出ることなく、ために双方からの疵護を失うばかりか、2月25日から4月1日まで獄中生活を余儀なくされ、果てはブリュージュにいわば強制送還される。
 11月17日、王妃カタリーナに呼ばれてイギリスに渡るが、彼女との対談は不調に終わり、イギリスとの関係はこのときをもって断絶する。以後、妻の両親の長患いもあって極貧の生活が続くが、ブリュージュの我が家での静かな思索と研究の時間に恵まれることになる。このとき以来、彼の思想はそれまでのエラスムスの強い影響から脱して、彼独自のものへと結晶し始める。

[1529年]
 
四旬節のころ、ブリュージュを訪問したイグナシオ・デ・ロヨラを一晩自宅に招く。

[1530年]
 すでに1508年に病死した母の遺体が異端審問所によって掘り返され、改めて火刑にされるという、実に惨たらしい事件がある。
 この年以後、カルロス五世からわずかな額の年金を受け取ることができるようになった。

[1531年]
 大作『学問論』を発表。これはベーコンの『大革新』(1620年、「ノーヴム・オルガヌム」の一部)の先馳け的作品と言われる。

[1532年]
 痛風を病む。これは以後、彼の晩年を苦しめた持病となる。

[1535年]
 ヨーロッパの動乱の時代。ミュルハウゼンの神秘主義がかったコミュニズム。
 彼らへの反論『財産共有論』を発表。

[1536年]
 パリに行き、公開講義(Cayo Julio Hyginoの作品論を骨子とする)。
 エラスムス死去。しかしそのころすでに、エラスムスの生得的な人付き合いの悪さのため、不仲になっていた、という説もある。

[1537年]
 ブレダに移り住む。これはナッサウ(Nassau)伯爵夫人の教育を依頼されたから。

[1538年]
 心理学に一大革新をもたらすこととなる『霊魂ならびに生命について』を出版、これをべハルの公爵ドン・フランシスコに捧げているが、67年後には、セルバンテスが『ドン・キホーテ』をやはりべハル公爵に捧げている。同じくユダヤ系であるこの二人の偉大な知識人が同名の公爵に鏤刻の代表作を捧げるというのも奇しき因縁と言わねばなるまい。
 7月2日、『ラテン語練習』(通称『対話』)を脱稿する。これはたぶんに自伝的要素を含んだ実に内容豊かな25の対話を集めたものであり、長く19世紀まで各国で教科書として、持にイギリスではグラマースクールの教科書として使われた。

[1540年]
 この年、再びブリュージュに戻る。
 5月6日 腎臓結石のため死去、享年48歳。
 遺体は同市の聖ドナチウス教会の聖ヨゼフ小聖堂に収められた。白い大理石に青い石で彼の名前と、そして12年後に死んだ妻マルガリータの名前が象嵌されている。
 絶筆『キリスト教信仰の真理について』は、妻マルガリータが、ルーヴァン市の法律顧問であった故人の親友クラネヴェルトの援助を受けて、1543年に出版した。


※ ビーべスの伝記的研究について
 上記の年譜を作成するに当たっては、1929年、ボニーリャ・サンマルティン(Bonilla y San Martin)の『ビーべスとルネッサンス哲学』を主に参考にしたが、これはそれぞれの作品誕生のいきさつ、歴史的状況の叙述があいまいであるという難点がある。現在までのところもっとも正確で包括的なビーべスの伝記的資料は、ノレーニャのものらしいが(Norena, Carlos G.: Juan Luis Vives, Madrid, 1978)、筆者はまだ披見する機会に恵まれていない(後に手に入れる)。



2. ビーベス著作分類目録


 以下の著作目録は、主に三人の研究者(A. Bonilla y San Martin, J. M. Villalpando, J. G. Delgado)が作成した目録を参考にして筆者が再構成したものであるが、三者間にかなりの異同があり、出版年・出版場所などを特定できないもの、暫定的な訳が付けられないものが残った。それらについては今後の課題としたい。

A 哲学
①『哲学の起源、学派、その功績』(De initiis, sectis, et laudibus philosophiae)、ルーヴァン、1518年
②『偽=弁証学者論』(In pseud-dialecticos) 、ルーヴァン、1519年
③『熟考について』(De consultatione)、オックスフォード=ロンドン、1523年
④『聖アウグスチズス“神国論”注解、22巻』(Commentaria in XXII libros De civitate Dei A. Augustini)、ルーヴァン、1521年
⑤『蓋然性という道具』(De instrumento probabilitatis)、1530年
⑥『第一哲学、もしくは自然の内的活動について、3巻』(De Prima philosophia sive de intimo naturae opificio, libri tres.)、1531年
⑦『論争について』(De disputatione) 、1531年
⑧『アリストテレス著作の吟味について』 (De Aristetelis operibus censura)、ブレダ、1537年
⑨『すべての本質の解釈について』(De explanatione cuiusque essentiae)
⑩『真なるものの吟味について』(De censura veri)

B 心理学
①『人間の寓話』(Fabula de Homine)、 ルーヴァン、1518年。フランドルの若い弟子・アントニオ・デ・べルジェスに捧げた小品。
②『老人の魂』(Anima senis)、ルーヴァン、1518年
③『霊魂ならびに生命について』(De anima et vita)、ブリュージュ、1538年

C 教育
①『英知の探求についての対話』(Sapientis inquisitio, dialogues)、ルーヴァン、1522年
②『児童学習過論、書簡2通』(De ratione studii puerilis, epistolae II) 、オックスフォード=ロンドン、1523年
③『魂の従者、もしくは象徴』(Satellitium animi, vel symbola)、ブリュージュ、1524年(出版はフランクフルト、1540?年
④『英知への導き』(Introductio ad sapientiam) 、ブリュージュ、1524年
⑤『学問論』(De disciplines)、 ブリュージュ、1531年
⑥『弁論法、3巻』(De ratione dicendi, libri tres)、ブリュージュ、1532年
⑦『書簡の書き方』(De conscribendis epistotolis) 、パリ (?)、1536年
⑧『ラテン語練習』(Linguae latinae exercitatio) 、ブレダ、 1538年
⑨『六つの演説のための練習』(Declamationes sex)

D 神学
①『虚飾の真理 キリストの勝利をめぐって』(Praelectio I suum Christi triumphum, quae dicitur: Veritas fucata)、パリ、1514年
②『神の母なる童貞の凱旋』(Ovatio Virginis Dei-Parentis)、パリ、 1514年
③『イエス・キリストの勝利』(Christi Jesu triumphus)、パリ、1514年
④『詩編第37歌についてのもう一つの黙想』(Meditatio altera en Psal. eundem XXXVII) 、1517年
⑤『キリストの盾の碑銘』(Clypei Christi descriptio) 、1518年
⑥『イエス・キリストの星占い』(Genethliacon Jesu Christi)、ルーヴァン、1518年
⑦『悔悛詩編の黙想』(Meditatione in septem psalmos quos vocant poententiae)、ルーヴァン、1518年
⑧『キリストが生まれた時代の平和について』 (De tempore quo, id est, de pace in qua natus est Christus) 、ルーヴァン、 1518年
⑨『わが主イエス・キリストの御汗を偲ぶ日々の祈り』 (Sacrum Diurnum, de sudore Domini Nostri Iesu Christi)、ブリュージュ、1529年
⑩『詩編第36歌によるキリスト受難の黙想』(Meditatio de Passione Christi in psalmum XXXVI) 、ブリュージュ、1529年
⑪『神に向かっての魂の高揚』(Excitationes animi in Deum)、ブリュージュ、1535年
⑫『キリスト教信仰の真理について、5巻』 (De veritate fidei christianae, libri quinque) (執筆、ブリュージュ、1540年) 、出版1543年

E 文学論
①『プブリウス・ウェルギリウス・マロ―の農事詩講義』(In Georgica Publii Vergilii praelectio) 、ルーヴァン、1518年
②『ポンぺイウスの逃亡』(Pompeius fugiens)、1519年
③『夢すなわちキケロのスキーピオの夢への序説』 (Somnium, quae est praefatio ad somnium Scipionis Ciceroniani)、パリ、1520年
Declamationes quinque Syllanae、ルーヴァン、1520年
⑤『フランチェスコ・フイレルフォ著 “共同生活” についての講義』 (ln Convivia Francisci Philelphi praelectio) 、ルーヴァン、1521年。イタリアの文学者フィレルフォの紹介。
⑥『クゥインティリアーヌスに答えての演説』(Declamatio qua Quintiliano respondetur pro noverca contra Caecum)、ルーヴァン、1521年
⑦ In quartum Rhetoricorum ad Herenium, praelectio, 1522年
⑧『スエートーニウス論補遺』(ln Suetonium Quaedam) 、ルーヴァン、1522年
⑨『虚飾の真理、あるいは詩的自由について、詩人はいかなる程度まで真理から逸脱できるか』(Veritas fucata, sive de licentia poetica, quantum Poetis liceat a veritate abscendere)、ルーヴァン、1523年
⑩『イソクラテースの法廷弁論』(Isocratis Areopagitica oratio)、オックスフォード=ロンドン、1523年
⑪『芸術の腐敗の原囚について』(De causis corruptarum artium)、ポルトガル王ジュアン三世に献呈、アントワープ、1531年
⑫『ウェルギリウスの牧歌のきわめて寓意的な解釈』 (Bucoricorum Vergilii interpraetatio potissimum alegorica)、ブレダ、 1537年
⑬『スキーピオの夢への徹宵』 (Vigilia in Somnium Scipionis) 
⑭『カトー (大) 論、もしくはキケロの晩年について』 (Ad Catonem maiorem, sive de senectute Ciceronis, Praelectio quae dicitur Anima senis)

F 道徳
①『夫のつとめ』 (De officio mariti)、ブリュージュ、1528年
②『キリスト教女性教育論』(De institutione feminae christianae) (執筆、ルーヴァン=オックスフォード、1523年。出版、アントワープ、1524年)

G 法律論
①『法の神殿』(Aedes legum)、パリ、1520年
②『キケロの法学講義』 (In Leges Ciceronis Praelectio)、ルーヴァン、1520年

H 社会論
①『貧民救済論もしくは人間の困窮について』 (De subventione pauperum, sive de humanis necesitatibus)、ブリュージュ、1526年
②『財産共有論』 (De communione rerum, ad Germanos inferiores) 、ブリュージュ、1535年

I 平和論
①『ヨーロッパの現状と騒擾について』(De Europae statu ac tumultibus)、ルーヴァン、1522年
②『皇帝とフランス王の和平について』(De Pace inter Caesarem et Franciscum Galliarum Regem, deque optimo regni statu) 、オックスフオード、1525年
③『皇帝に捕らえれたフランス王について』 (De Francisco Galliae Rege a Caesare capto) 、オックスフォード、1525年。 へンリー八世宛の書簡の形で書かれた平和論。カルロス五世と一致してフランス人の心を静めるよう提言している。
④『トルコ支配下のキリスト教徒の生活状態』 (De condicione vitae christianorum sub Turca)、ブリュージュ、1526年
⑤『ヨーロッパの不和ならびにトルコとの戦争についての対話』 (De Europae dissidiis et bello Turcico dialogus)、ブリュージュ、1526年
⑥『人類の和合と不和にづいて』(De Concordia et dscordia humani generis)、ブリュージュ、1529年
⑦『平和論』 (De pacificacione)、 ブリュージュ、1529年


[参考文献]

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※ 現在まで出されたビーべスの全集は、1555年にバーゼルで出版されたもの、1782年にバレンシアで八巻本として、マヤンス・イ・シスカル(Mayans y Siscar)兄弟が出したもの、の二つだけだが、後者は1964年にロンドンから復刻本が出された。 またスペイン語訳2巻本全集が、1947- 8年に出されている(Obras Completas, traducción de Lorenzo Riber, Aguilar)。しかし残念ながら、筆者はそれらのいずれをも手にすることができずに今日に至っている。本格的なビーべス研究はそれらなしに不可能であるので、せめてロンドン版のコピーなりとも早急に手にいれたいと願っている*。

*のちに手に入れる。

「東京純心女子短大紀要」第4号、1991年