19. 内側からビーベスを求めて(四) (1996年)



内側からビーベスを求めて(



はじめに

 ルイス・ビーベスがユダヤ系改宗者の血筋に連なっていたこと、そして彼の一族が、のみならず両親・姉妹といういちばん近しい肉親までもが、異端審問という残酷かつ冷酷な歴史の荒波にもまれにもまれたという事実は、現在までさまざまな文献によって次第に明らかにされてきたが、しかしその事実が彼の思想形成にどのような影響を及ぼしたのか、実はその点に関する研究はようやく始まったばかりなのである。もちろん彼の出自と彼の思想が決して直線的に原因(causa)と結果(efecto)という関係で結ばれているわけではない。今まで何度か筆者自身も指摘してきたように、それは複雑にからみ合い屈折した関係、言うなれば誘因・動機(motivo)としての関係であったと推定される。この問題の究明には、したがって彼の作品・書簡などに対する徹底した内からのか(desde dentro)照射が不可欠となろう。
 同時代文書の中で彼のユダヤ系出自のことが触れられたり、あるいは暗示されたことはないようである。しかし後に言及するように、それは、彼の出自についてだれも知らなかったというわけではもちろんない。むしろかなりの人がそれをいわば「公然たる秘密」として知っていたとする方が自然であり、無理がない。この場合に限らず、歴史の真実は字面ではなく行間に息づいている、というわけである。オルテガなら、歴史は「読む(legere)」ものではなく、「内部を読む(intelligere)」(1)もの、と言うであろう。
 さて本論は、その問題究明のいわば基礎作業として、彼の出自、彼の家族の受難史を、できるだけ事実に即してまとめてみることに限定したい。したがって、論点は以下のように四つになる。すなわち

①彼のユダヤ系改宗者の血筋のことが、いったいいつごろから表面化してきたか。
②彼の家系ならびに一族受難の歴史。
③特に彼の両親・姉妹の場合。そして最後に、
④そうした家族の受難に対して、ビーベスがどう反応したか、

である。



1.ビーベスはいつごろから改宗者の血筋を疑われたか

 
 前述したように、ビーベス存命中あるいは同時代に書かれた文献の中に、彼のユダヤ系改宗者の血筋について触れたものは現在まで発見されていない。それではそれ以後の人たち、たとえば十八世紀末(1782年)に彼の八巻本全集を編んだマヤンス・イ・シスカルの場合はどうであろうか。この八巻本全集には、周知のように、ビーベスの労作『神の国注解』は収められていないが、それはこの作品が当時禁書目録に載っていたからだったらしい (2) 。つまりスペインはいまだ異端審問制度が命脈を保っていた時代だったのである(決定的に廃止されたのは1834年)。したがって、たとえマヤンスが第一巻劈頭の「家系」執筆の際に(もっとも実際に筆をとったのは、弟のフワン・アントニオだったようだが)ビーベスの出自を知っていたとしても、それを公表できる時代ではなかったのである。
 ガルシア・カルセルによると(3)、19世紀末、いち早くビーベスのユダヤ人説に触れたのはアマドール・デ・ロス・リオスらしいが、その出典については明記されていない。とうぜんそれはリオスの代表作『スペインならびにポルトガルのユダヤ人の社会・政治・宗教の歴史』(初版は1875年だが、10年前にその復刻版が出た。J. Amador de loa Rios: Historia social, política y religiosa de los judíos de España y Portugal, en 3 vols., Turner, 1984) のはずである。しかしいくら捜しても該当個所が見つからない。そのうちアメリコ・カストロが、1948年に発表した『歴史の中のスペイン』(España en su historia)の補遺X「ビーベスは改宗者であったか」の冒頭で、「アマドール・デ・ロス・リオスは、すでにビーベスが改宗者の家系から出たのではないかと疑っていた」と出典を明示しつつ述べている個所にぶつかった(4)。ところが、カストロの指摘している個所を調べてみても、そこには14世紀末にバレンシアの裕福な商人たちがキリスト教に改宗したとあるだけで、どこにもビーベスやその一族のことは名指しでは書かれていない。
  時間的な後先からすると、ガルシア・カルセルは、カストロの指摘を読んでロス・リオスの作品に当たってみたが、該当個所が見つからず、出典を明示できないままに、鵜呑みにしたのではないか。真相は分からないが、もしかするとカストロは、リオスの該当個所を読んで、それがビーベス一族のことだと深読みしただけなのかも知れない。ともあれカストロがその持ち前の嗅覚を働かせて、1948年という時点で、ビーベスのユダヤ人説を大胆に言い切っているのは、さすがだと感服するだけである。というのは、彼の主張が文献的にも確証されるのは、それから16年後の1964年だからである。
 ともあれ、ながらくビーベスのユダヤ系改宗者説はいわば一種のタブーみたいなものだったようだ。たとえば1947年にロレンソ・リベルが編集出版したスペイン語版全集(全二巻) の中では相変わらずユダヤ人説がなかば感情的に否定されていることからも分かる。
 リベルはこう書いている。

「バレンシアの博学な系譜学者ホセ・カルアナは……別の系譜を示しているが、しかしそれはマヤンスが用意したものよりかはましだが、事実関係に何ら光を当てるものではなく、むしろよりいっそう不確実性を増すだけのものである。フワン・ビーベスのユダヤ人説などは、それがたんに[ビーベスという]姓の同一性にのみ根拠をおいた臆説以上の、もっと信頼できる証明が存在しないかぎり、われわれからはただ本能的な拒否反応しか期待できまい。ルネッサンスのエピゴーネンたちの中でもっともキリスト教的な彼ビーベスが、このような先祖にまつわる中傷によって汚されるのを見るのは、実に胸が痛むことである」(傍線は筆者)(5)

 ついで彼は、ビーベスの母方のマルク(March)家は、父親のそれよりるかに確かなキリスト教徒の名門につながるものだとして、バレンシアを征服したハイメ一世の側近 Jaime March や Pedro March の名と結びつけ、果ては、カタルーニャ文学史上燦然と輝く大詩人 アウジアス・マルク(Ausias March, 1395?-1462?)とまで結びつけている。だが残念ながら、後述するように、それらはすべて根拠を持たないたんなる希望でしかない。実は拙論(一)の「ビーベスの生涯」の項でもこの説をとっているが、ここで訂正しておきたい。
 ところで前述したように、ビーベス・ユダヤ人説を、文献学的実証なしに、大胆に主張したのは、言わずと知れたアメリコ・カストロである。彼は、『歴史の中のスペイン』(のちの『スペインの歴史的現実』の前駆的作品)の中で、先に引用した文章に続けて次のように書いている。

「人間ルイス・ビーベスの生の形を正確に研究するなら、私の考え――現段階では暫定的な――は確証されるであろう。それでもまだ文献的証拠を求める疑い深い人がいるかも知れないが、そんなものは、バレンシアの古文書館を先入観を持たずに探索すれば見つかるであろう」。

 そして少し時間はかかったが、彼の言う通り、1964年、ホセ・マリア・デ・パラシオとデ・ラ・ピンタ・リョレンテの二人が、ビーベスの母フランキーナ・マルクの異端審問記録を埃の中から発見したのである(6)
 さらにその後アンヘリーナ・ガルシアがビーベスの系譜研究に見事な成果を挙げているのは、今後の研究にとって実にありがたいことである(7)
 ところで、ビーベス一族の受難史をたどる前に、その一族がどのような経緯をもって歴史の中に登場したか、簡単に触れておく必要があろう。
 さきほどビーベスの家系を、たとえば大詩人アウジアス・マルクに結びつけるのは間違いだと言ったが、それはビーベス家が次の史実にその起源を持っているからである。
 すなわち彼の家系は1391年、7月のある日曜日をもって始まった、と言っても間違いではなさそうである。というのはその日、バレンシアのユダヤ人社会は、多数派キリスト教徒によって襲撃略奪され、もし財産の保全を望み、生命を長らえたいなら、キリスト教に改宗するよう強制されたのである(前述したアマドール・デ・ロス・リオスの指摘はこの事件をめぐってであった)。これはちょうど一世紀後の1492年に発せられたユダヤ教徒追放令と実質的には同じ効果を及ぼした。そのとき約300家族が改宗し、創氏改名を果たすが、彼らの経済的な力はそうとうなものであった。
 その職業は、主に各種商人、有力者の経済顧問、医者、貿易商人(地中海やフランドル地方を熟知していた)だったが、なかでもリーダー格のAbenfaçam という名の二人の男(名前をそれぞれ Mossé とIçach という)は、キリスト教徒としての姓を Vives に変え、また Xaprud を名乗る二人の兄弟(Içach と David)は、それぞれ Gabriel March と Tomás March に、そして Fahim Darl というラビは改宗して Juan Valleriola に、さらに Xux という二人の男(それぞれDavid と Jacob という名の)は Valldaura に改名した(8)
 言うまでもなくこれら四つの姓は、約一世紀後に生まれるフワン・ルイス・ビーベスにすべて係わってくる。すなわち Vives は彼の姓(父方) そのものであり、March は母方の姓、そして Valleriola は父方の祖母の姓、そして Valldaura こそは、後に彼の妻となるマルガリータの姓(父方)であるというぐあいに。つまり彼の先祖はいずれもバレンシアのユダヤ系改宗者社会を代表する有力者たちだったのである。
 さて Vives を名乗った家族は、ジェノバ、フィレンツェ、ベネチアなどの商人たちと の取引を通じて、カスティーリャの羊毛をほとんど一手に引き受けて輸出し、またバレンシア産の商品(葡萄酒、乾し葡萄、糖蜜など)は、オーステンデなど現在のベルギーの港に荷下ろしされ、かわりに当地特産の織物が積み荷されて、カスティーリャやバレンシアそしてイタリアなどに出荷された。
 Manuel Vives の二人の息子 Salvador と Luis(ビーベスの祖父)は、業界の大物でカトリック王フェルナンドの秘書兼銀行家であったサンチス兄弟(すなわち Gabriel と Alonso)と Luis de Santángel とも取引があり親しかった。彼らの名は、コロンブスの新世界発見航海の出資者・推進者として有名である。共に改宗者の血筋を引いていたが、一族の殲滅につながる異端審問制度の廃止、あるいは少なくともその軌道修正に影響力を及ぼすことはできなかったのであろうか。同じことは、われらのビーベスについて、筆者自身かつてつぶやいたことがある。カルロス五世を初めとする有力者たち、なかでも異端審問所長官とも親交のあった彼が、なぜもっと積極的かつ効果的に反対運動を展開しなかったのか、という疑問である。
 もちろんこれは時間的にも空間的にも絶対的安全地帯にいる者の、第三者的な勝手な言い分であって、当事者たちにとってみれば、異端審問制度は人の力・思惑をはるかに越える巨大な大波として感得されたのであろうが。



2.ビーベス一族の受難史

 
 ビーベスの一族は、以上のように、父方・母方そのいずれをとっても、バレンシアにおける有力者たちであったが、時代は彼らにとって思いもかけぬ過酷な運命を用意していた。もちろん、異端審問所によって隠れユダヤ教徒(フダイサンテ judaizante)の嫌疑をかけられ、財産を没収され、果ては焚刑に処せられたということである。焚刑に処せられた一族の者たちの遺骨は、バレンシアを囲繞するグアダラビアル河畔(トゥリア川の支流か)の “ケマデーロ” (quemadero 火刑場)にばらまかれた(9)
 ともあれその受難の歴史を時間を追ってたどってみよう。

  • 1482年 ビーベス一族で最初に異端審問にかけられたのは、Joan March, またの名を Cartetes という人で、ビーベスの母の兄、つまりビーベスの伯父であり、同時にビーベスの父の従兄弟 Miquel Vives の舅であるが(10)、1486年、娘のうちの一人(Castellana か Esperanza)と共に世俗の官憲に引き渡された(11)
  • 同じ年、ビーベスの大叔父 Salvador Vives が裁判にかけられた。
  • 1486年 Joan March の息子 Jaume March(逃亡中)に逮捕状が出た。
  • 1487年 別の Jaume March すなわち Joan の父であり、ビーベスから見れば、母方の祖父が妻 Isabel Maçana ならびに二人の娘、すなわち Violant と Blanquina(つまりビーベスの母となる人でこの時14歳であった)と共に、和解(reconciliación)に応じた。
  • 1488年 Esperanza すなわち Joan March のもう一人の娘(ビーベスの母の姪に当る)とNicolau Capepello すなわちビーベスの母の従兄弟が裁判にかけられる。Esperanza は贖罪の罰を科されただけだったが、Nicolau は脱走の後ふたたび捕らえられて1492年に火刑に処せられた。
  • 1491年 ビーベスの母 Blanquina が母 Isabel Macana ならびに姉たち(ガルシア・カルセルは複数形にしているが、家系図によれば、女のきょうだいは Violant だけである)と義理の兄弟たちと共に再び裁判にかけられる。
  • 1492年3月のユダヤ人追放令施行のあと、比較的おだやかな日々が続いたが、1500年3月19日のシナゴーク発覚事件のあと、事態は再び切迫してきた。

 このシナゴーグの発見によって、とうぜん真っ先に裁判にかけられたのは、この家の所有者たちであった。すなわちミケル・ビーベス、その妻カステリャーナ・マルク、その母カステリャーナ・ギオレである。家系図で見ると、ミケルはサルバドール・ビーベスの息子であり、哲学者フワン・ルイスの祖母の甥ということになる。
 そのときの状況を伝える文書があるので、以下に訳出してみる。

「…本聖省は、この町の改宗者ミケル・ビーベスの家で毎度曜日、たくさんの大ロウソクと明かりが点されていたこと、そしてそれが約半年前まで続いていたという情報をにぎっていた。この事実を知った神父様方は、彼らが土曜日と他の曜日とではその過ごし方がまるっきり違うとの情報を得ていたにもかかわらず、その家の者たちの捕縛は逮捕状を用意して金曜日の夜に実行に移されることが取り決められた。かくして、〔予定していた]捕吏が年老いて病気持ちだったので、[その代わりに]修道士のマルティン・ヒメネスとホアン・ペレスと私(異端審問官の神父様方[を別にすれば]共に事件については格別に詳しい[三人])、さらに二人の同行者[の合計五人]は、日が暮れてから(一部街灯の光に照らされていた)密かに件の家の玄関口に近付き、戸が開いているか調べたが、戸は閉ざされていた…神のご加護と信仰の熱意とで勇気を奮い起こすと、前述の戸を地面に引き倒して部屋に踏み込んでみると、そこは次のような物で見事に飾られていた。
 まず明かりの点った三つのランプ。また部屋の中央に一本のロウソク立てあるいは真鍮のカンテラが吊り下げられており、そこには八つの灯心が燃えていた。また件の部屋の一方には、きわめて高価なカリファに被われたテーブルがあり、その四隅とそれぞれ半分の中央には[合計]六本のロウソクが燭台の形で並べられていた…以上のことが行なわれているあいだ、私ともう一人は、戸口をかためて、家の中にいただれもがそう望み試みたにもかかわらず、だれも出入りできないようにした。そしてマルティン・ヒメネスとホアン・ペレスは、まことシナゴーグと呼び得るその部屋を見張るように一人を残して、自分たちは階下に降り、私の脇にいて執拗に逃げ出そうとしていたその家の主、前述のミケル・ビーベスと、当市のもっとも上流階級の出であるその妻とを逮捕した。しかしビーベスの母親を見つけることはできなかった。というより、彼女の息子もその嫁も、彼女がどこにいるかを白状しなかったので捕らえることができなかったと言うべきか。それで、そこにいた一人の若い娘を捕らえて脅すと、小娘は彼女がどこにいるかを白状した。それはドアとは見えないような衣装箪笥の[裏にある]書斎であった…」(12)

 またこの時の押収文書の中には、前述のユダヤ人社会の大立て者たち、すなわち Alfonso Sanchiz や Luis de Santángel の名も含まれていたが、しかし前者はローマ教皇から発せられた特別な身分保証書のため、また後者は、すでに物故していたため、逮捕は免れた。もっとも後者の場合、その長男は逮捕された(末子はバルセローナに逃れた)。このときまた、Miguel Vives と Alfonso Sanchiz(長男)とのあいだに、ポルトガルから船 をチャーターして、ポルトガルとバレンシアのユダヤ人たちをナポリに輸送する計画のあったことが発覚した。
 このとき逮捕され投獄されたのは、56名である。この時の告発状の中で目立っているのは、ミケルが狂人であるという内容である。たとえば彼は何年にもわたって屋敷牢のようなところに閉じ込められており、鳥の言葉を解したり、母親に殴りかかったり、夫婦仲がうまくいかず、喧嘩のたびに小舅たちが止めに入らなければならなかったとか、バレンシアからプレステ・ジョンの王国までの距離を知っているといった類の証言である。
 これらの証言が、はたしてミケルの裁判を有利に持っていくためのものなのか、それとも悪意に満ちた証言なのか、にわかには断じがたい。また母カステリャーナ・ギオレについての証言も、息子のそれに負けず劣らず奇妙なものである。たとえば「靴下もはかず、スカートをたくし上げた姿で家から家へと渡り歩き」、「通りすがりの若い娘たちを家に引き込んでは、彼女たちを裸にし、スープやレモンやオレンジを与える」などのことである。
 これら証言の出所は、オリウエラという町のアポテカリ(カタルーニャ語で薬剤師を意味する)だったホアン・リミニャーナという男らしいが、彼自身も後に死刑を宣告され、1500年11月25日、火刑に処せられた。当時の密告制度が複雑怪奇に機能していたことがこの事実からも分かる。ともあれ、彼の証言によって、ビーベスの父方の祖父(ミケルからすれば、父方の伯父)Luis Vives とその妻 Esperanza Valeriola が捕縛されることとなった。ところで、Miguel の妻 Castellana March は、ビーベスの母の兄の連れ合い(つまりビーベスから見れば、従姉妹)だが、獄中、一人の娘 Angeleta を産んだ。
 1501年7月9日には、15 名に死刑の判決(つまり世俗の官憲に渡されたということ)が下ったが、この中には前述の Miguel とその妻 Castellana March と母 Castellana Guioret が含まれていた。

 以上見てきたとおり、異端審問所の魔手が先に伸びたのは、ビーベスの母方の親戚マルク家の方だが、ビーベス家に及ぶのにそう時間はかからなかった。すなわち前述したシナゴーグ発覚事件のとき(1500年)、祖父 Luis Vives と父 Luis Vives Valeriola が審問所に呼び出される。しかし、前述したように、Miguel(祖父 Luis の甥に当る)とはもともと不和の関係にあったことが明らかとなって、この時は経済的制裁だけで無罪放免となる。またビーベスの祖母方の親戚である Valeriola 家の人たちも、このシナゴーグ事件の時に連座する。すなわち Isabel Santángel と結婚した Daniel Valeriola とその息子 Baltasar(それぞれビーベスの父親の母方の叔父と従兄弟に当る)は、人形(ひとがた)焚刑(13)に処せられるのである。
 このとき、ビーベスは8歳か9歳であったが、多感な少年の目に、一族の災難はどう映ったであろうか。母 Blanquina は裁判で無罪を勝ち取り、無事釈放されたが、1508年、この地を襲ったペストのため、その年死去(一家はアルシーラという町に短期間生活した後、当時は Xàtiva という町に住んでいた)。遺骸は、アルシーラの町のサンタ・カタリーナ教会墓地に埋葬された(この遺骸が、埋葬後21年の1529年12月31日、ふたたび掘り出され、改めて異端者として焼かれるという痛ましい事件が起こる)。同年 Blanquina の父 Jaume March もその波乱の生涯を閉じる。ビーベスがパリに向かったのは、おそらく翌1509年のことと思われる。家族について作品中に触れることはめったにないビーベスだが、『キリスト教女子教育論』の中で珍しく両親についてこう語っている。

「(当時)母 Blanca [Blanquina の正式名] は結婚15年目を迎えていたが、彼女が怒ったのを見たこともないし、父と争っている記憶もまったくない。彼女は特に次の二つのことを心がけていた。すなわち何かを人に信用させようとするときは、いつもこう言うのが常だった。《もちろん私はルイス・ビーベスも同意見であると確信しております》。
 また彼女が何かを欲するとき、ルイス・ビーベスもそうお望みだからというのがその理由だった。ところが父ルイス・ビーベスは、とりわけ自分たちの母親と喧嘩別れしてよりを戻すことのなかったスキピオ・アフリカヌスあるいはポンペニオ・アッテクスの故事が話題にされるとき、こう答えていた。《それと同じことは妻とのあいだにも起こったことがあるよ》と。その場に居合わせた人たちは、大いに驚いたものだった。なぜなら、私の両親のような仲むつまじい夫婦はいない、というのが衆目の一致するところだったからである…。唖然としている聞き手たちに、父はこう付け加えた。《このようにスキピオは母親とよりを戻すことはなかったが、それは彼がいつも母親と良い関係にあり、その関係を断ち切ったことなどないからです。私と妻との関係も同様であり、いままで和解とか仲直りをしたことがないのは、いままで妻と争ったことなどないからです》」(14)

 さて1500年には無罪放免となったビーベスの父親も、1519年には(このときもちろんビーベスはすでにルーヴァンにいたが) Jaume March の娘 Violant(ビーベスから見れば母方の叔母に当る)の家で行なわれていたユダヤの断食や祭りに頻繁に参加した廉で告発された。この時、ビーベスの伯父の Jerónimo も告発された。ところでビーベスの母方の伯父伯母(7人兄弟)はどうなったかと言うと、以下のような順序で結局全員、異端審問所に狙われるが、ほとんどの者はなんとか魔手を逃れた。すなわち1482年にすでに告発を受けたことのある Joan March は、嫌疑を受けるがその妻 Leonor de Conca と共にバレンシアを脱出してナポリへ逃れ、医者であった Ausias March も脱出に成功する。また法学者で少年時代のビーベスがもっとも尊敬していた別の伯父 Enric March は 告発されながらも首尾良く逃亡したという具合に。
 曾祖父 Manuel Vives は、1450年にすでに他界していたが、1505年10月23日、つまり死後 55年も経って、その遺骨が掘り出され、他の57名の者と共に、改めて火刑に処せられた。その孫 Blanquina(ビーベスの母)がのちにたどるのと同じ実に残酷な仕打ちにあったわけだ(15)。このとき、ビーベスは12、3歳であり、物心ついて以来常に一族の不幸をわてきたとは言え、この度重なる一族の悲劇は、少年ビーベスの心に再び深い傷痕を残したに違いない。
 ところでこの錯綜した親族たちの運命をたどることはこの辺でやめにしよう。ガルシア・カルセルの作った系譜図も、ところどころ辻褄が合わず、伯父のはずなのにいつのまにか従兄弟になっているなどの混乱が随所に見られる。当時のコンベルソたちが身を寄せ合って生きていたからか、それともユダヤ系家族にはそれが当たり前なのか、親族同士の結婚が多く、また何代にもわたって同一の名前が続いたりしていることも、混乱の原因となっている。たとえばわれらのルイスの場合、父も祖父もルイスであり、たどっていくうちにこちらの頭が痛くなってくる。ともあれ、以下、直系の肉親だけに話を絞ることにしよう。



3.ビーベス一家の受難

 
 さて母 Blanquina が1487年、つまり14歳のとき、異端審問所に摘発されたが、結局無罪放免されたことはすでに述べた。彼女は翌1488年 Luis Vives Valeriola と結婚する。1500年のシナゴーグ発覚事件のときにも逮捕されるが、このときも放免。したがって1508年、彼女がペストにかかって死ぬまで、比較的平穏な日々が続くこととなる。もちろん前述のように、その間も、他の親戚縁者には次々と異端審問所の魔手が伸びていたが、少なくともビーベス親子にとって直接的なトラブルはなかった。しかし1522年10月、父 Luis Vives と姉 Isabel Anna が投獄されるという悲劇が起こる。姉の方は翌1523年5月31日、母親と同じように(しかし今回は獄中で)ペストに感染しての死という悲惨な最後を迎える。父もまた、1524年9月6日、つまり703日にも及ぶ獄中生活の末、世俗の官憲に渡されて焚刑に処せられた。
 このころビーベスはルーヴァンに住んでいたが、故国の家族たちを襲った悲劇に関してどのような情報を得ていたのだろうか。すでに訳出したことのある当時の手紙(親友クラネベルト宛)に探ってみよう。1523年1月4日、彼はこう書いている。

「ただ一人の男のきょうだい[弟の Jaume]が福音史家聖ヨハネの祝日に死んだという知らせが入りました。しかし運命の一撃はこれだけではありません。僕の父も重病にかかっており、きわめてわずかな希望のうちに死んでいくしかないということです。つまりきわめて深刻な訴訟沙汰が起きており、僕たちの財産に対してひどい仕打ちがなされたということです。僕の三人の女のきょうだい[Leonor、Beatriz、Isabel Anna]は、まだ若年の身空で、貧しさの中に取り残されてしまいました…」

 この手紙には、真実と虚偽が相半ばしている。いままでたびたび指摘されてきたことだが、彼にとって生涯にわたる親友であったクラネベルトに対してまで、このような自己韜晦の線をくずさなかった彼の真意は謎めいている。つまりここには、一家が異端審問所と問題を起こしていることなどおくびにも出していないし、事実を少しずつずらしている。たとえば父の重病は事実に反するし、三人の女のきょうだいが若い身空でと言っているが、はたしてそうか。家系図で見るかぎり、姉たちのはずだからである。
  1524年から1534年の十年間に、ビーベスの母ブランキーナの兄弟(Juan, Luis, Jaime)[つまり母方の伯父たち]の上に審問所の追求が迫ったが、Juan はその妻 Leonor とともにナポリに向けて海路逃走中、乗っていた舟が難破し、陸地の見える所で水死した(16)。そして Jaime と Luis は、拷問を受けたあと改悛の罰を言い渡され、さらにモーロ人に捕らわれていた Bernat Lorenzo という男の身代金を支払わせられた。彼らは結局、7年ほど獄中生活を送った。
 ところでビーベスの母ブランキーナは前述したように1508年に死んだが、異端審問官Alberti によって、前述したように、死後21年も経って異端と断定され、12月31日、その遺体が掘り出され、他の10人の者(欠席の者は人形焚刑によって)ともに火刑に処せられた。これには実は裏の事情があったらしい。というのは、当時ビーベスの姉たちは、母親の残した遺産を没収から守るために世俗の裁判所に訴訟を起こしていたが、母親が異端を宣告された場合には財産没収が可能となるため、審問所側が死者を改めて裁いたということらしい(17)



4.ビーベスと異端審問

 
 さて今まで、彼が親友宛の書簡においてさえ、家族の不幸について韜晦していることを再三指摘してきたが、しかし当時、人文主義者の中には、その個人的な書簡すら出版されるという風潮があったことを思えば(事実、エラスムスの場合と同じく、彼ビーベスも、生前何度かラテン語による個人書簡が出版された)、彼の書簡もいつ、誰の手に渡って公表されるか分からなかったのである。つまり彼の異常とも見える警戒心には、それなりの理由があったことは理解してやらねばなるまい。もしかすると、われわれの方では読み落としているが、彼らの間では、何か符牒のようなものがあって、たがいに字面以上のメッセージを読み取っていたかも知れないのである。
 その意味でクラネベルト宛書簡の中には、いくつか注目すべき言葉が含まれている。たとえば彼が「運命(fortuna)」という言葉で意味したかったのは、まさに「異端審問」のことであったというぐあいに。
 またビーベスが故国の家族たちの受難にただ手をこまねいていただけ、というのは、やはりあまりにビーベスに厳しい評価かも知れない。というのは、書簡群を注意深く読んでいくと、彼は彼なりに、家族のために苦しみ、できる範囲のことをしているからである。そして彼の場合、そのできる範囲というのは、時の有力者たちへの手紙による働きかけである。
 たとえば、異端審問所長官の Alonso Manrique は、1534年、バレンシアの異端審問所に、Jaime March に関して次のような書簡を送っている。

「薬剤師 Jaime March は 1531年に終身刑を言い渡されているが、しかし彼の件はよく再調査した上、彼がいままで果たしてきた償いや苦行、その他このメストレ[カタルーニャ語で先生の意]に対するわれらのしかるべき慈悲と寛大さに免じて、彼が減刑され、その代わりに、現在モーロ人の地に捕らわれの身になっている Gines de Amierte の身代金を払わせるというのがをわれらの意志である…」(18)

  異端審問所長官 Manrique がエラスムスに好意的な人であったことはよく知られているが、しかしこの場合、A. ガルシアが言っているように、ハイメ・ビーベスが友人ルイス・ビーベスの伯父であることからくる、彼の好意的な処置であったことは間違いないであろう。長官といえども情実がゆるされないほど、いわば無機的・機械的に機能する巨大な制度となりつつあった異端審問機構の中で、これは最大限の情状酌量であったようだ。もちろんこの処置は、ビーベスが1529年に書いた『平和論』(De pacificatione)がまさにマンリーケに献呈されたものであったことと無関係ではあるまい。その中で彼は、マンリーケのことを、平和の無いところに平和をもたらす人として、最大級の賛辞の言葉を連ねているが、これには家族に対する追求の手がいくぶんでも和らげられるように、との彼なりの計算が働いていたと考えてもそれほど事実から離れることにはならないであろう。
 ビーベスが異端審問制度についてどう考えていたか、実はこの問題に包括的に答えるためには、もちろん彼の全作品・全書簡に即しての検討が必要だが、今回はその準備がないので(19)、最後に一つだけ、前述の『平和論』の中での彼の言葉を引用することにする。

「異端者たちを取り締まる審問官であることは、きわめて危険かつ高度な[人間性を要する]職務であり、もしもその真の意図ならびに目的をご存じないとすれば、重大な過誤を犯すことになりましょう。なぜならそこには多くの人の生命、財産、評判、そして生活がかかっているのですから。人間的なさまざまな情念にとらわれた裁判官、あるいはさまざまな周囲の情勢から[たんに]憎悪の念で動く破廉恥な中傷家かも知れぬ検事に、そのようなとてつもない権限が委ねられているというのは、実に驚くべきことです」(20)



(1) 『ドン・キホーテをめぐる思索』拙訳、未来社、1987年、pp. 95-96.
(2) Ricardo García Cárcel: La familia de Luis Vives y la Inquisición, en “Opera Omnia” de J. Luis Vives, I, p. 491.
(3) Ibid., p. 489.
(4) Op. Cit., Ed. Crítica, 2 ed., 1983, p. 646.
(5) Obras Completas, Aguilar, 1947, vol.I, p. 15.
(6) 残念ながら筆者は現在まで被見しえていないが、次のものである。M. de la Pinta Llorente y J. M. de Palacio: Procesos inquisitoriales contra la familia judia de Luis Vives, Madrid, 1964. この書の終わりに、ビーベスの父親の裁判記録が印刷中と書かれているらしいが、まだ出版されていないようである。
(7) A. García: Els Vives. Una família de jueus valencians, Valencia, 1987.これはカタルーニャ語で書かれており、手元に置いて必要個所を辞書片手に苦労して読んではいるが、ぜひスペイン語訳を出して欲しい。ただし、主要部分は、Coloquia Europalia Erasmus in Hispania,Vives in Belgio, In Aedibus Peeters, Lovanii, 1986. 2 “La familia de Vives” というタイトルでスペイン語の文章が収録されており、今回の拙論でも参照にさせてもらった。
(8) Ricardo García Cárcel, op. Cit., p. 492.
(9) Angelina García, op. Cit., pags. 293, 299.
(10) 別ページの家系図を参照いただきたい。この図は、ガルシア・カルセルが作成したものを、表記上の間違いを正しつつ、またアンヘリーナ・ガルシアの叙述から新たに分かった部分を加えつつ、より分かりやすい形に筆者が作り直したものである。しかしまだ不明の部分、不確かな部分がかなり残っている。
(11) この部分はスペイン語では relajart(普通の意味は「規律などを軽減する」)と言うが、実際の意味は軽減とは逆に、むしろより厳しい処置を受けることになる。つまり異端審問官の手から世俗の官憲(スペイン語では Juez Real Ordinario)に引き渡されること、つまり多くの場合火刑に処せられるということになる。なお異端審問に係わる用語については、次のものに詳しい説明がある。M. Jiménez Monteserin: Lexico inquisitorial, en “Historia de la Inquisicionen España y America”, vol.1 B. A. C., 1984, pags. 184-217.
(12) Ricardo García Cárcel, op. Cit., p. 498.
(13) 適当な訳語が見つからないので、一応「人形焚刑」と訳したが、原文は quemado en estatuta o efigie である。つまり死刑の判決が下りたのに、たとえば被告が逃亡中のような場合、その罪人の木製の似姿を公衆の面前で、あたかもその罪人その人に対するかのように火刑に処すことである。
Cf. Jimenez Monteserin, op. Cit. p. 197.
(14) この個所は、Adolfo Bonilla y San Martin: Luis Vives y la filosofía del Renacimiento, Imp. del Asilo de Huerfanos del S. C. de Jesús, 1903. (これの復刻版が1980年に Real Academia de Ciencias Morales y Políticas から出た)の18-19ページに引用されているのだが、しかし彼(ボニーリャ・イ・サンマルティン)が注でことわっているように、1524年にアントワープで印刷された初版にはあったのに、1538年にバーゼルで出版された版ではどういうわけか省略されているそうである。しかし彼はその初版本は見ておらず、彼が引用したのは1528年のアルカラ・デ・エナーレス版からだそうである。マヤンス・イ・シスカル版全集ではどうなっているか今回は筆者の所有しているマイクロ版で確かめる時間がなかったが、エスパーサ・カルペ社のスペイン語版では省略されているらしく、指定個所をいくら探しても引用部分は見つからなかった。
(15) A. García, op. Cit., p. 295.
(16) Ibid., pags. 301-302.
(17) Ricardo García Cárcel, op. Cit., p. 504.
(18) A. García, op. Cit., p. 302.
(19) 現段階ではこれ以上言うための材料を持ち合わせていない。しかし、実は本文を書いた後、フィクションの形で筆者の仮説を組み立ててみた(「ビーベスの妹」、『青銅時代』第37号掲載)。本文の中でそれを紹介(?)するのは気が引けるが、注の中でなら許されるかも知れない。そこで問題にしたかったことを要約すれば以下のようになろう。ビーベスのパリ遊学の出発時期に関して。1508年説と翌1509年説と二つあるが、母親の死(1508年ペストで死去 )がそれとどう関係していたか。愛する母親の病死の後に異国への旅立ちを決意する、あるいは踏ん切りをつける、という方が自然かも知 れない。しかしフィクションでは、彼の出国の後に母親の死があったと想定している。理論的根拠はまったく無いが、あえて理屈をつければ、母親の死の直後に、旅立ちへのエネルギーが残っていたかどうか、むしろ出国の後に母の死を知り、彼のデラシネ体験がもはや後戻りの許されない決定的なものとなった、とする方がしっくりくるのではないか。
 そしてそのとき、つまり彼の旅立ちのとき、彼(ならびに両親)に、相当の葛藤と覚悟があったはずである。決別を意味していたからである。もしかすると16歳のビーベスには、そのままバレンシアにとどまることがもたらす閉塞感、ユダヤの伝統を捨て切れない一族と共なる生活が意味する息苦しさから逃れ出たいという願望があったのではなかろうか。そして両親は、そのような息子の意思を、ある複雑な思いで、最終的には許さざるをえなかったのではないか。上のように考えると、肉親の悲劇を前にしたビーベスの謎めいた態度が、少しは理解できそうに思える。つまり彼の姿勢が常にアンビヴァレントであることの意味がわずかながら見えてくる。

  • 彼は、彼の両親、彼の一族があるいはそうであったようなフダイサンテ的傾向からは遠い位置にいた。もしかすると、彼らに対して、キリスト教思想家の立場からの批判的見解を持っていたと言えるかも知れない。だからこそ彼は生涯、同族に対する裏切りの意識、愛憎相半ばする複雑な感情を持ち続けた。
  • しかし同時に、異端審問制に代表される体制側イデオロギーの非キリスト教性・非人間性に対する強い否定の念があった。
  • そうした両面性は、生活の最終的根拠地をフランドルのユダヤ人社会に求め、結婚相手もユダヤ系女性であったことの中に現れている。
  • これとは別の文脈で、エラスムスはビーベスを両棲動物(un animal anfibio)と評したことがあるが(ビーベス宛書簡、1527年5月)、おそらく言った本人は気づいていないにしても、評語自体は隠された真実を言い当てていた。

(20) Ricardo Garcia Carcel, op. Cit., p. 514.

※本論文は、「東京外国語大学 平成六年度教育研究学内特別経費によるプロジェクト《中近世イベリア世界における共生と葛藤――旧キリスト教徒と新キリスト教徒》研究成果報告集」に「ビーベスとその悲劇の家族」として発表したものに加筆・訂正したものである。



『東京純心女子短期大学紀要』
第10号、1996年