いまどき、ファン・ヒーターであれ時計であれ、全てコンピュータ操作で、故障したらもうお手上げだ。昔は街の時計屋さんの店先で、水中眼鏡の親方みたいなものをかけたその店の主人が、小さなリューズやぜんまいをピンセットでいじっている姿を見かけたものだが、今ではそんな時計屋さんの数は微々たるものだろう。いまどきの時計屋さんは電池交換しかやってくれない。ところで今リューズと書いて、外来語のように思っていたが、本当はれっきとした日本語らしい。つまり竜の頭と書く。知らなかった。
エアコンにももちろんコンピュータが組み込まれている。調子が悪くなったら最寄りのサービスセンターに連絡して修理に来てもらうか、販売店経由で修理に出さなければならない。ラジオやCDプレーヤーなら、時には、というよりたいてい、修理代の方が新品より高くついてしまう。別にいま現今の商品事情をぼやくつもりはなかった。今日は台風一過、朝から真夏のような日になって、あわてて二階廊下(私の書斎コーナーでもある)のサッシ戸に八王子から運んできたクーラーを据えつけたことを報告したかっただけである。幸いなことにこのクーラー、どこか北陸の小さな会社が作った簡単構造というか原始的構造のクーラーで、素人がいじっても立派にクーラーとして再生した。ほかに二つ普通のエアコンも運んで来たが、これは電気屋さんに頼むしかないだろう。
いや、クーラーを立派に据え付けましたよ、と自慢するつもりでもなかった。言いたかったのは、机にも向かわないで一日のかなりの時間をガラス代わりのアクリル板を切ったり、クーラーと柱隙間を埋めるべく廃材を利用したり、の悪戦苦闘の意味である。電気屋に払う手間賃が惜しいからか。それもあるが、見方によっては無駄かつ無意味なこうした時間の過ごし方を大事にしたいのである。伊東静雄の「秧鶏は飛ばずに全路を歩いてくる」のクイナのように、不器用に、省略せずに、非効率的・比効果的に生きることを大切にしたいのである。実はこのような考え方は、ここ二年ほど野良猫たちとの付き合いから徐々に教えられた。(いつものように本当に言いたいことが最後にやっと出てくる。この回り道にもそれなりの意味があると強弁したいのかな。ちょっと無理と思うよ)
(7/12)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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