キリスト教国では十一月が死者の月だが、日本では八月であろう。仏教で言う盂蘭盆の月だからだけでなく、原爆被爆そして敗戦の月であるという意味で、日本人にとってこの暑い八月が死者の月となった。そのことを今年ほど強く意識させられたことはなかった。
もともと私たち夫婦が相馬に移住する気になった理由の一つに、これまでの生活・体験をじっくり見つめ直したい、そしてできれば先祖の墓守になりたいというのがあった。前者はともかく、先祖の墓守などと書くといかにも信心深そうだが、実を言うと、これはいわゆる宗教心とはほとんど関係がない。簡単に言えば、残された日々、自分がこうして生きていることの意味を探ることの一端として先祖のことを考えてみたいということである。といって古文書を捜査したり、家系図を探索するほどのエネルギーや執念はない。この古い家に辛うじて残されている手紙や写真などの整理をしながら、ゆっくりいろいろ考えていきたいのである。
しかしそれより焦眉のこと、と思っているのは、自分自身のこれまでの生活の中で、時に生活に追われ、時に行き違いから、忘恩と失意(相手方にとっての)のままに打ち過ぎてきたたくさんの人たち(そのうちかなりの人たちは既に故人となってしまった)のことを思うこと、記憶を新たにすること、である(山梨のミチルさんのおかげで故ラブ神父と再会できて本当に嬉しい)。
はるかな昔(?)に勤めていた大学で、人望篤く、少しやりすぎかなと思うほど組織のために献身的に働いた友人がいた。彼が病に倒れ、八ヶ月の闘病生活の末、働き盛りの命を絶たれたとき、彼の死はどんな教師の死もかなわないほど(彼は事務職員だった)たくさんの卒業生、在校生たちの深い哀悼の念を喚起した。一年前いわば厄介払いの形で彼の退職を決定した大学当局(と一応言うしかないが)は、あわてて (と事情を良く知る者には見えた)組織全体が葬儀に加わったが、その後の彼(というより遺族)に対する冷たい扱いに愕然とした。彼はあのときから、一年に一度か二度の死者ミサで「大学の恩人たち」と言挙げされるだけの存在に成り下がってしまったのである。それ以来、「死者のために祈る」とは態の良い「厄介払い」であることを肝に銘じた。
違う! 死者のために祈る、いや死者に向かって祈るとは、私たちが生者とだけでなく実は常に死者たちと共に在ることをしっかり認識することなのだ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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