私の宗教

という題のウナムーノのエッセイがある、ただそれだけの話である。今現在の私に、そんな大それたテーマで語るものなど、ほんと正直言って、何もない。なさけないくらいにすべて中途半端で曖昧で自信がない。自信がない? いや、自信がないというのでもない。この際人からどう思われようが、そんなことはまったく気にならないくらいポカンとしている。
 家からおそらく百何メートルのところにカトリック教会がある。小さい頃からもちろん毎日曜ミサに出たし、長いあいだ侍者(ミサの間中司式神父の手伝いをする)もやっていた。数年前亡くなったE神父には、その間ずいぶんお世話になった、というより可愛がられた。「バタボル (ライオン印のバターボール)食ベルカ?」という甘い誘いの声が懐かしい。その後、あろうことか修道院にも入ったし、一時は神父になることはもちろん、何と!聖人志願の時代もあった。信仰のために死ぬことなどまったく意に介さないほど高揚した時期もあった。
 いつから「転落」が始まったのだろう。世俗に戻り、結婚し、子供をもうけ…未だにこの経緯の意味が分からない。つまりその時々の偶然と必然の渦の中でなんとか体勢を整えながらここまで生きてきた。それなら、還俗したことを後悔したことがあるか? ノー!何億回もノー!
 帰省以来、この至近距離の教会に一度も行っていない。いま教会は専任の(?)神父がいないまま、外壁も薄汚れて、寂しく建っている。遠い別の町の教会から日曜毎に巡回でやってくる神父に司牧されている。長い御無沙汰をわびながら、気軽に出かけていけば、もしかして別な展開があったかも知れない。しかし…自分の良心にかけて言うが(ちょっと大袈裟)、自分の中で「私の宗教」がもう少しはっきりした輪郭を持たないうちは、教会には戻らないだろう。明確な形をとって、今度は確信をもって教会を離れるという可能性はもちろんある。
 今言えることは、これまで長い間判断を保留してきたたくさんの問題の中で、この「私の宗教」こそが最大の課題であり、難問であり、そろそろ、いままでのような逃亡者(fujitivo)を気取ってなどいられない、ということである。
 待てよ、こんなテーマで書くつもりなどなかったのに、今夜はどうしたのだろう? でもなんだか知らないけれど(知っているっしょ)、言いたいことがいっぱいありそうで、しかもだんだん腹が立ってきた。(8/24)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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