東京値段

田舎に住むようになっていたく感激しているのは、海産物や野菜などがさすが産地に近い、あるいは産地そのものだから、とうぜん新鮮だということである。たとえば刺身にしても首都圏のスーパーで買うそれとは、味がまるで別物である。だからスーパーで売っている寿司も、寿司屋で食べる寿司と比べて遜色が無い(私自身めったに寿司屋で食べたことがないので自信はないが)。
 ところがおいおい分かってきたのは、値段が東京値段だということである。この「東京値段」というのは、先日地元の知人から聞いた言葉だが、もしかするとそう表現することで地元の人たちも腹立たしく思っているのかも知れない。たとえば福島県は、南と北の果物のそれぞれ北限であったり南限であったりして豊富な果物の産地である。特に桃の味は素晴らしい。しかし、夏の終わりになって桃が出始めても滅多に買わない、いや買えない。いつか値段が下がるのでは、と期待していたが、いつまでたっても下がる気配がないのだ。
 なぜそうなのか、もちろん答えは分かっている。つまり「流通」の問題である。日本全国、それが産地であろうとなかろうと、価格が均等になる仕組みが出来上がっている。これは或る意味ではありがたいことではある。たとえば沖縄産のゴーヤがこの田舎でもたぶん沖縄と同じくらいの値で買えるのは。しかし、である。こうした均等化の流れの中から、物の値段だけならまだしも、全てのものが日本中どこへ行っても同じという困った状況が生まれている。特にこの情報化時代にあって、狭義の情報だけでなく好み・感受性までもが、瞬時にして伝播していく。若者たちの目は、流行の仕掛け人たちの集まる東京に常に向いている。小学生、中学生あたりまでは辛うじて残っていた地方地方の風土性・独自性みたいなものが、高校生になると徐々に失われはじめ、やがて渋谷や原宿の若者たちと寸分違わぬ格好の若者たちに仕上がっていく。
 まっ、ボヤいてみても始まらないか。どう足掻いてみてもこの流れを止めることはできそうにもないのだから。いや待て、「私の生」は限られていて、そんな悠長なことは言ってられない。だから日々、ウナムーノの好きなオーベルマンのあの言葉をつぶやく。「人間は死すべきもの(そして愚かなもの)である。確かにそうかも知れない。しかし抵抗して死のうではないか。それを当然と思わぬことにしようではないか」。 (8/27)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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