まず子供が学校に従属し、最後は老人が病院に従属する。その中間は? もちろん会社であったり団体であったり、従属先に困ることはない。
小学校の入学式の日のいつもの教室風景。「いいですか、皆さん、今配った [算数セット] 明日持ってくるのですよ。ここでお母さま方にお願いします。小学生になられたお子様方に対するご父兄としての愛情を見せていただく最初の機会です。今お配りした算数セットに明日までぜひお子様方の名前を記入していただきたいのです」「あのー先生、この麻雀の得点棒みたいなものにもですか?」「もちろん一本一本につけてください。落としてだれのものか分からなくなりますと喧嘩になりますから」。果ては高校生の修学旅行の持ち物に名札を付ける、こともあろうにパンツにも。
本当はねー、得点棒が他人のものと間違われないように、たとえば鼻くそをつけておくとか、いろいろと工夫することが大事なんだけどなー。それに所属をめぐって喧嘩になることのどこがいけない? 人はそうやって他者との距離の測り方や付き合い方を学ぶんじゃないの? 何?パンツにもだって? ばっかじゃない、てめーの下着くらいてめーで管理させろよ。
ある大学での話。試験シーズンになると学長様大忙し。父兄から抗議の電話が増えるから。「あのー娘の話ですと、カンニングするお嬢さんが何人もいるとか。真面目に受験している娘が可哀相です、なんとかしてください」。かくして教授会での学長発言となる。「先生方、試験のときは机の間を巡回してカンニングがないようにしてください」
本当はねー、他人が不正を働くと自分が損する、と考える意地汚い学生を育ててることの方が問題なんだけどなー? たとえ他人が不正を働こうが、自分はやらない、という学生を育てるのが教育じゃないの?
どんなに教育改革を叫んでみても、どんなに制度をいじってみても、この「従属関係」を根本から問い直すことを抜きに(そしてその視点を最後の最後まで保持する覚悟を持たずに)日本の教育に未来は無い。学校なんてなくても立派な人間になる(育てる)ことができる、事実むかしはそんな人がゴマンといた。学校依存症から脱却すること、逆説的だがそこからしか日本の教育改革は始まらない。いつの世にあっても教育の要諦は、「自分の眼で見、自分の頭で考え、そして自分の心で感じる人間」を育てることなのだ。 (8/29)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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