映画やドラマでは、重要な場面、劇的な場面には必ずその場を盛り上げる、あるいは緊張感を高めるための効果音や音楽が挿入される。もちろん現実世界では、たとえそれがどれほど重要かつ決定的な場面であれ、それに見合った音楽が鳴り響くわけではない。時にそれはあまりにも非・劇的な、いかにも日常的な音、たとえば赤ちゃんのむずかる声、あるいは街角で吹き鳴らされる豆腐屋のラッパの音(ちと例が古すぎるか)だったりする。
しかし思い出の中の情景には、想起されるたびにある特定の音楽が連想されるということがある。というより、ある特定の音楽が過去のある特定の情景を喚起する、といったほうが正確かも知れない。たとえば私の場合、「タントゥム・エルゴ」というグレゴリアン聖歌を聞くたびに、少年時のある光景が立ち上がってくる。「タントゥム・エルゴ」にもいくつかバリエーションがあるが、あのいちばん重厚なやつ、地を這うような重低音が響くやつである。たいていこの曲はミサの後の聖体降福式(今は聖体賛美式と言うらしい)の時にもうもうと立ち昇る香煙の中で歌われるが、その旋律を聞くたびに、終戦時の満州のどこか寂しい町はずれの鉄路を、そして血塗られたような夕焼けの中でへたりこむ日本兵の一団を思い出すのだ。いや、もう少し正確に言うと、その曲が鳴り響くあいだ、ともかくも敗走する日本兵の一団は行軍しているのだが、曲が終わるや否や、彼らは線路のここかしこに座り込んでしまう。そして実際に見た光景は、鉄路の上にへたり込んだ彼らの群像なのだ。
このとき、かの地で夫に先立たれ(病死)、幼い三人の子供を連れて引揚げの途中にあった我らの(?)バッパさんには、腹を空かせたわが子らの姿が一瞬視界から消えたのか、何個かの西瓜を買い求めて、これら敗残の兵たちに恵んだのである。さてこの彼女の行為を何と評価しよう。教科書にも載せたいくらいの美談、個人的な幸・不幸など国家の大義の前には一顧の価値すらない、とする烈女の物語とするか、あるいは腹を空かせた幼い子どもたちを栄養失調の危険にさらした母親失格の悪女とするか。
いやー、白状すれば、書こうとしていたのは宗教体験における典礼・儀式の意味、その効果性だった。しかし退院後しばらくは神妙だったバッパさんがまたまた勢いを盛り返してきたので、ついいじめたくなったのである。もうやーめた。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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