依田勉三のこと

いま十勝の小学生に「依田勉三って誰か知っていますか?」と聞いて、いったい何人が正解できるだろう。しかし偉そうなことを言っても、私自身長い間この人のことを忘れていた。この人、十勝建国の父なのだ。確か帯広市立柏小学校の授業で、この人の名前と彼の開拓鍋の話を聞かされたと思う。
 長い間忘却の海に沈んでいたこの人の名が突然浮上してきたのは、もう十八年前のこと、伊豆松崎の港でだった。その頃、静岡の常葉学園大学に新設されたスペイン語学科で、それまでスペイン語とはまったく無縁だった静岡の学生たちにどうしたらスペインやスペイン文化に興味をもってもらえるか腐心していた。その一環として毎夏、伊豆の子浦でスペイン語合宿をすることにしたのである。その子浦には、清水港からフェリーでまず伊豆の松崎に行き、そこからバスというコースをとった。しかしその港でどうして依田勉三と伊豆松崎の関係を知ったかは、実はすっぽり記憶から抜けている。それはともかく、確かなのはそれから授業でしきりに彼の名を引き合いに出したことである。
 静岡県人は自らを保守的であると思っている。そして静岡からは偉い人が出ていない、という自虐的な(?)考えを持っている人が多い。学生たちもどちらかというとのんびり屋が多く、人が多くて忙(せわ)しないから東京には行きたくない、という学生もいる。まして況やスペインをや。だからそのころ、「君たちはまるで石垣苺だ。ぽかぽか日向ぼっこばかりして外に出て行こうとしない」と叱咤激励したことがある。それに対して「先生、石垣苺には冷たい苗床時代があるんですよ」と反論する勇気のある学生がいたが、「だったら君に、冷たい苗床経験があるか」と逆襲したらギャフンとなった一幕もあった。
 新潟県人は必要に迫られて保守的だが、静岡県人は生まれつき保守的だという評判もある。しかしである、この保守王国静岡から、あの山田長政が出、そしてわが依田勉三が出た。つまり保守的な風土から、それを突き破るような形で革新的な人間が出てくるのである。そんな奇妙な唆(そそのか)しがあったせいか、一期生四十人弱の中から、十人近くの学生が東京などに出て行った。そのほとんどが女子学生だったのは時代の趨勢か。
 さて従来からお上の言うことには従順であったわが福島県人が、いま初めてそのお上に抗議している。でもそれどこまで本気なのかな? (9/6)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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