先日再選されたばかりの長野県知事田中康夫氏が、福島県の矢祭(やまつり)町町長根本良一氏を訪ねたというニュースが流れた。町村合併が大勢の中、矢祭町では断固反対姿勢をくずさなかったことに対して、地方自治あるいは地方自律の観点から意見を聞きたいということでの訪問である。もちろんかねてからその意見に共鳴していた根本氏を応援するためであろう。そしてそれより先に、この矢祭町の決断を尊重する姿勢をとっていた福島県知事佐藤栄佐久氏を訪問していたことも同時に報じられた。
このダイアローグで時事ネタはできるだけ避けるつもりだったが(もともと時事問題が不得手だという単純な理由からだが)、このささやかな一歩前進には触れずにはおれない。原発問題に対する佐藤知事や県の対応がどこまで本気なのか、未だに疑心暗鬼のところもあるが、しかし今までのところ、それが場当たり的なポーズではなさそうなので喜んでいる。国の独善的姿勢に対するこの実に当たり前の抗議がいまだにニュースになること自体、わが国の政治的成熟度がいかに低いままであるか、を物語っている。
国家の面子あるいは大義の前に個人がいかに無価値なものと見られているか、今回の拉致被害の問題に対する政府あるいは外務省の対応を見ても明らかである。肉親が拉致されたことをできるだけ表沙汰にしないよう、被害者の家族に対して外務省などが働きかけていたことが明らかになってきた。たとえば誘拐事件の場合、犯人を下手に刺激して被害者にもしものことがあってはならないから、一時期隠密裏に捜査を進めるということはある。しかし外務省や政府がやってきたことは、下手に相手を刺激して政治的に不利な立場にならないように、というのが本音だったであろう。国家の大義の前に個人の命など無価値であるという本音が、口にはしないが、透けて見える。
拉致被害の家族には大いに同情するが、北朝鮮との国交回復という大事の前には致し方ないという考え方もあろう。しかしこれこそまさに乗り越え廃棄しなければならぬ国家観の残滓ではなかろうか。そして鋭い痛みとともに思うのは、この日本国自体が、当の北朝鮮をはじめ近隣諸国に対して、その残酷さ、その規模において今回の拉致事件以上の国家的蛮行と犯罪(強制連行は白昼堂々と行われた拉致である)を繰返したことを未だにきちんと清算していない国であるという事実である。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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