私の友人Mさんには、Yと言う名の筋ジストロフィーを病む息子さんがいた。小さい時は何度か勤め先の大学に連れてきたこともあったが、成長とともに重くなった彼を運ぶのは難しくなり、Y君とも会うこともなくなった。最後に会ったのは、四谷の聖イグナチオ教会での彼自身の葬儀ミサにおいてであった。一九九六年一月、彼は二十歳になっていた。参列者宛ての家族からの礼状にはこう書かれてあった。
「私共への神様からの贈りものは その役目を果たし終えたかのように天にもどってゆきました。色々な事を思い、見る日々でした。深い哀しみも心にしみる人のやさしさにも触れました。今 自由な足を持ったYは、おひとり、おひとりに心から御礼を申し上げていると思います。ありがとうございました、 又会う日迄ね」、と。
スペイン人の大学教授と日本人の女医の子供として、Y君にはきっといろいろな夢があったに違いない。しかし難病に見舞われた。彼も成長するにつれて苦しんだと思うが、家族にとっても大変な重荷であったはずだ。しかしM教授はいつも「Yは私たちの宝です」と言っていた。その言葉を意外とは思わなかった。それは彼と彼の家族の確信であり、信念であり、そして希望であることが素直に理解できたからだ。Y君の姉のMさんは弟の存在が動機になったのか、医学の道に進み、たぶん現在は立派な女医さんになっているはずだ。
不幸に見舞われることに法則はない。つまり誰が何の理由で、どの程度の不幸に逢うのか、まさに理屈を越えたミステリーである。時々、なぜこの人がこんな不幸に、と思う。神や仏があるものか、と言いたくもなる。統計をとったことはないが(当たり前だが)、理不尽な不幸の方が圧倒的に多いのではないか。
でも不思議なのは、自分のであれ、あるいは愛する人のであれ、不幸や苦しみが時に人を強くし、優しくし、そして高めてくれることである。人間劇(ヒューマン・コメディー)において、マイナス記号が突然プラス記号に転じる不思議が起こる。まさに神秘だが、おそらく苦しみや不幸が人間としての真の意味での自立を促すからではないか。
トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭の言葉は、その意味で深遠な真理を突いている。「幸福な家庭はすべてよく似かよったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」。
(9/22)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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