いつかこの世の出来事が、そして人間の所業が、すべて総括されるときが来るのであろうか。果たしてキリスト教でいうところの最後の審判あるいは公審判(個々人の審判とは違うという意味で)があるのか。レジが閉められて収支決算がなされるように、いったんすべてが宙吊りにされて裁かれるときが来るのか。私には分からないが、ひとつ考えられるのは、全てはこのまま総括もされずに、ずるずると終末(どんな?)を迎えるのではないか、ということである。よく歴史の審判ということが言われる。これも曖昧な表現である。残念ながら歴史は絶えず改竄されている。人間は、これじゃ正直者がバカを見る、という切羽詰ったところで絶対者なる審判者を想定したのか。でもこれは「神も仏もあるものか」と言う言葉の裏にある考え方と結局は同じではないか。つまり甘えであり苦しいときの神頼みである。
いやー、そんな大それたことを論じる資格もないし(考える権利はあるが)、気力も持ち合わせていないのだが、いつものとおり今晩の惣菜を買って車で家路に向かうその前方に、いやに赤い落日があって、そして頭のどこかに何百人という死傷者を出したバリ島の爆弾テロのことがあって、ついこの世の終わりへと想念が向かったのかも知れない。
でもアメリカはテロを力で封じ込めることができると本気で信じているのか。心の中に広がる深くて果てもない憎しみの闇を銃で追い払うことなどできるはずもないのに。彼ら(アメリカ)の考え方は単純明快だが愚かしい限りだ。彼らの善意は認めてもいい。つまり彼らは彼らなりに信じる理想の社会がまずあるのだろう。その尺度に合わないものを力ずくで従わせようと熱心なのだろう。
でも力で当たって砕けるよりも、砕けて当たった方がよくはないか。ときにそれは無節操、日和見、その場しのぎ、と批判されるかも知れない。世の中がこれだけ乱れてくると、「なんでもあり」に対する嫌悪感もまた募ってくる。しかしもう少し怺(こら)えてみたらどうだろう。つまり世界はもはや格好つけてる場合じゃない、ギリギリのところに来ているということだ。国の威信、面子などを言っている場合じゃない。その意味で対北朝鮮交渉での小泉首相の姿勢はなかなかいいのだ。しかしまだ「当たって砕けろ」から抜けきれていない。軟体動物のように、ぐにゃぐにゃと執拗に…あっこれ、私にはできません。 (10/13)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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