気がついたら師走に入っている。第二の人生(と言うほどのものでもないが)の初年度が終わりかけている。いくつかまだ遣り残していることがあるが、もともとノルマを自らに課さないことにしているので、アワテナイ、アセラナイ。
昨日の問題に関して若干のことを付け加えたい。愛国心のその「国」が何であるかが重要であるが、もう一つある。すなわち愛国心はそれが自然発生のもの、排他的でないもの、自らの環境をさらに大切にする心を育てるものなら、あった方が無いよりずっといい。いま「持たないより持ったほうがいい」と言おうとして辛うじて踏みとどまった。なぜなら愛国心は持つものではなく、私たちの方がその中に「ある」ものだからである。言葉を換えれば、愛国主義は御免だということである。
たとえば伝統というものがある。これは、何らかの価値を持ち、大切にされる要素を持っているものが自然と形を成し、そしてそれが伝えられるときに生まれる。人類が他の動物に比してこの地球上で大きな顔ができるのも、この伝統を他人や子孫に伝える能力を持っているためである。このことはラテン語を見れば実によく分かる。つまり伝統(traditio)とは引き渡す(tradere)ことなのだ。他の動物も、たとえば食物を川で洗うという習慣を仔に伝えるなどのことができるが、人間は単に所作だけでなく、それを様々な仕掛けを通じて正確に、時には創始者の予想をはるかに越える意味と精神性を加味しつつ子孫に伝えることが出来る。
伝統は、伝えられた者が、それを再び生きるときに初めて「生き返る」が、伝えられた者が伝えられたものを「生きる」のではなく、たんに「繰り返す」とき、伝統は内部から崩壊する。各種家元がときに醜い跡目争いで腐臭を漂わせるのはそのためである。あるいは各地の史跡保存委員会なるものがもっとも伝統から遠ざかっていることがあるのもそのためである。
愛国者ではありたいが、愛国主義者にはなりたくない。といって、その場合の国は、政治的あるいは経済的(現代両者は分かちがたく結ばれている)な存在ではなく、文化的な共同体であり風土であってほしい。外国人という他者との共存でその独自性が脅かされるような国あるいは文化など、もともと伝承に値しないものと思って間違いない。あるいは神話や作られた美談で鎧わなければならぬ国など、祖国の名に値しないということである。
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