H歯科医院は小さな自社ビル(?)の二階にあり、待合室の窓からは真下の通りと、その通りをはさんだS電気店が見える。通り自体が大通りから少し引っ込んだところにあるせいか、店の中に客がいるのを見たことがない。しかしそれでも営業を含めたその電気店の生活には余裕のあることが、ときおり外に洗濯物を干しに出てくるその家の主婦、庭木や盆栽の世話をしている創業者らしき老人の立居振舞からも推測することが出来る。店主は外回りの仕事で留守が多いのか、その姿を見たことがない。店横に車六台は悠々入る駐車場とその奥にかなり広い庭があり、その庭を突き切って行けば、たぶんまた別の小さな通りに出るらしい。というのは、宅急便のトラックらしきもの背中が、庭木の向こうに見えることがあるからである。
田舎の町のゆったりとした日常が、程よい大きさの書き割りの中にきっちり見えるような気がして、順番待ちの時間がひとつも退屈でない。眺められる方からすれば、向かいの歯科医院の窓からどこかのおっちゃんがなにやらこちらを窺っているようで気色悪い、と思うかも知れない。でもこちらの視線など気にするふうでもなく、毎日の手順に従った生き方に一分の狂いもない。
長閑な午後の光の中で、先日亡くなった牛島氏のことを考えているとき、どういう連想かは分からないが、上のような光景を思い出し、そして牛島氏が訳したセルバンテス『模範小説集』のことに思い至った。たぶん連想の順序は、一昨日ここに書いた虚実皮膜の論から、自分の中に残っていた最近の心象風景、そしてセルバンテスの文章作法へと繋がって行ったものと思われる。つまり書かれている内容そのものがなんの変哲もないものであっても、描写の仕方によっては面白くなる、といったことが確か『犬の対話』の中にあったはずと思ったのである。階下の未整理の書棚を探したら、今日は珍しく直ぐ見つかった。ベルガンサとシピオンという二匹の犬のうち、後者の台詞の中にあった。
「ある種の物語は、……筋そのものは陳腐でつまらなくても、そこに美しい言葉の衣を着せたり、顔や手の表情を添えたり、さらに声音を変えたりすることによって、生気をおびた興味津々たる話となるものもあるんだよ」。
白状すれば、一昨日は必要以上に楽屋話をしたのでは、と気にしていたのだ。だがこれ以上書けば恥の上塗りになる。このへんで止めておこう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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