既視感(déjà vuvu)という言葉があるなら、既感感(déjà senti)という言葉があってもよさそうな気がする(語呂が悪いか)。というのは、われわれは視覚だけでなく、もっと頻繁に、われわれの中にすでに存在する触覚とか、さらに広い意味での体感を反復なぞっているのではないか、と思うからである。たぶんそうした感覚の繰り返しやなぞることがあまりに当たり前のことなので、あえてそのための言葉が存在しないのかも知れない。先日引き合いに出した一茶の句、
畠打の顔から暮るるつくば山
を例にとれば、畠打 [をするお百姓さん] の顔に当たる夕陽を見て、あゝこうして今日も一日が過ぎていくなあ、と感じる詠み手の中には、視覚的な体験の積み重ねと同時に、畠打の側に立った体感のようなもの、すなわち夕陽が今自分の顔に触れるまでの低さになっているという感覚、をもなぞっているはずだからである。でなければ、夕陽が当たるのは稲束でも軒先でもいいわけである(でも誰かの詩に、角の郵便局あたりで日が暮れる、といった内容の現代詩があったような気もする。だとしても、それこそ一茶の句の一種の読み換えであり既感感をなぞっているわけである)。
そんなことを言い出せば、われわれの感覚はすべて自分あるいは先祖たち、の体験をなぞっているわけで、その意味ではまったく新しい感覚など無いと言っても過言ではない。これを表現の場に移せば、すべての表現はかつて既に表現されたものの反復であると言うことができる。つまり表現はすべて既にある表現への注解、割注、そして引用以外の何物でもない、ということになる(誰か偉い人がそんなことを主張していたような気もするが)。
すべてはコピーだと考えるとつまらないが、しかしそこに歴史の堆積が加味されていると考えれば、逆に楽しくなってくる。オルテガの遠近法主義を援用すれば、われわれが一つの光景を眺める時(感じる時と言い換えてもいいはず)、そこに無意識裡に時間の経過を、遠近を眺め感じているのである。
たぶんヘラクレイトスの「万物は流転す」もヘッケルの「生物の個体発生はその系統発生を短期間で反復する」も、この遠近法主義の視点から説明できるはずである。いやいちばん言いたかったことは、春がそこまで来ている、というこの感覚は天気予報のデータによるのではなく、われわれの中に堆積されたデジャ=サンティの働きによるということだったのだが…
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