十日ごとの大熊詣での日だが、義母はまだ検査のため施設の隣りのF病院に入ったまま。同じ町にある別のO病院で手術の必要性が出てきたので、同意の意志を書類で出していただきたいと、出発直前に電話連絡が入った。ちょっとした下血があるそうなのだ。むかし胃潰瘍をわずらったことがあるので、もしかしてそのせいか。
F病院を訪ねてみると、点滴の最中ということで、ベッドのまま運ばれてきた。顔色もいいし、大したことは無さそうだが、気が弱くなっているのか、会ったとたん顔がくしゃくしゃになった。こういう時はケータイ、ケータイ。今日は非番の八王子の娘に電話。ケータイを耳にあてがったとたん、一気に明るい顔になる。ほんとケータイ様ゝである。もう少し頑張れば今までいた施設の個室に戻れるから、と元気付けた。応対してくれた看護婦さんの笑顔が嬉しい。
行き帰りの丘や畑や田にはもう春がしっかり居座っている。別だん新芽の緑が目立ってきたわけではないが、どんなに鈍感な人でもこの春の気配は感じるであろう。インターネットの初期画面(?)で、次の画面に移行するかしないかの微妙な瞬間に、もやっと画面が動き出すその気配のようなものと同じだ。たぶん畦道のどこかに小さな命が芽吹き始めているのは確かだが、遠目にそれを確かめることはできない。それなのにその気配はしっかり感じ取れる。
「あれっ見てご覧!あそこの雲、見て見て!人の顔になってる!」素っ頓狂な妻の声だが、すれ違う車と勝負しているこちらの身になってくれ!余裕が出来たときに上を見上げてみたが、その雲がどこにあるのか分からない。安全運転のためには、「本当だっ!」と答えておくことにする。
今日もクッキーは出発前から気配を察して、いつものとおり屠所に引かれる豚みたいな声で鳴いていたが、道中は悲しいのか嬉しいのか分からぬすすり泣きに変わった。そしてときおり、売れっ子男性タレントのひきつけ笑いみたいな声で鳴く。この子なりの嬉しさの表現なんだろうと思う。この子なんて言ったが、もう十一歳。人間だったら六十を越えたおじんのはずだぞ。
最近、友人たちの死が続き、気分的に晴れない日が続いていたが、春の道を走っていると、それら死者たちには本当に申し訳ないが、こうして生きていることの嬉しさがこみ上げてくる。死者たちへの忘恩にならないよう、彼らとの対話を忘れず、しっかり生きていきたい。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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