先祖返り

便器に腰掛けたまま、ドアに貼られた今年のカレンダーを見ている。一月が終わって、さて今は二月。十一日のところが赤い数字になっている。あれっ、何の祝日だろう。どうしても思い出せない。これってやばくない?
 アラビア数字の月の表示に重なるようにして小さな漢字とふりかなが書かれている。二月は如月、三月は弥生、でも一月は? 漢字は二文字、ひらがなは三文字、はて何だろう? 右手の人差し指と親指を重ねるようにして、その隙間から覗いてみた。こうすることによって、老眼鏡を忘れたときなど何とか切り抜けてきたことを思い出したからだ。しかし月の前の漢字がどうしても読めない。陰暦の一月は何だったろう? これって恥ずかしくない?いや、元大学教授として恥ずかしい以前の、六〇を越えた日本人としてやばくない? 
 私には日本人として持つべき平均的な教養が欠如していることを、この際白状しなければならない。テレビのコマーシャルで、菊地桃子が干支を言えない(確か未を山羊としたか)女の子を演じているが、私とて似たようなものだ。私と同年輩の人たちはどうだろう?
用を済ませてからドアに近づいて確認。睦月ねー、そうだった睦月だった。それではその他の月は? 睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月…?、葉月、長月、神無月、…?、師走。おいおい、葉月の次と神無月の次が分からないぞ。 一度出た便所に戻って確かめる。そうだ、文月と霜月。そして二月十一日のことは妻に訊ねてやっと思い出した。そう、建国記念日。
 情けない気持ちになったが、しかし物は考えようだ。知らないことがこんなにもあって、だから老後は退屈知らず。
 こういう私を基準に考えてはいけないのかも知れないが、しかし平均的日本人、いや私たちの年代よりもっと若い人たちのことが心配である。自分たちの国の歴史、文化、習慣、言語など、どの程度のものが教えられ、そして自ら知ろうとしているのだろうか。おや、私もとうとうあの顔と顎の長い、和服や鯨尺の例を使って伝統文化の喪失を嘆いてきたA氏に似てきたのだろうか。ちょっと嫌だが、正直言って本当に心配になってきた。どこの国も伝統文化が脅かされている時代(あの文化国家フランスでさえご多分に漏れず)だが、日本ほどあらゆる点で伝統的なものが破壊された国も珍しいのではなかろうか。
 私もこうして先祖返りをしていくのかな。それもいいかも知れない。 (2/4)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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