このいささか牧歌調の名前を初めて目にしたのは、昔妻が勤めていた用賀の清泉インターナショナル・スクールの同僚カーリンさんの書いた記事の中であった。明治の日本を旅してその記録を残した奇特な外国人としてその名前だけが記憶に残っていた。バードと片仮名で表記されてはいるが、まさか鳥と同じ綴りだとは今日まで知らなかった。いま彼女の『日本奥地紀行』の一部を二階縁側の机に座って読んでいる。風は強いが西日もまた強い一日の最後で、室内から見ている限り、まるで真夏近くの、それもフェーン現象の午後のような空の様子である。国見山あたりの空が見事な黄金色に塗(まぶ)されている。
『福島県文学全集』第Ⅱ期第1巻の劈頭を飾る彼女の文章を読んで行くと不思議な感慨に捉えられる。一八三一年イギリス・ヨークシャー生まれの牧師の娘が、初めて訪れた日本の、それも東北、北海道という「奥地」を旅したときの記録である。明治十一年(一八七八年)六月ころ、人を乗せたことのない馬の背に揺られての辛い旅をなぜ敢行する気になったのか。いま読んでいる箇所は会津の農村地帯の記述だが、そこには貧しく不潔ながら礼儀正しい、そして外国人に対して異常なまでの好奇心を示すわれわれの先祖たちの姿が描かれている。
この紀行文が日本人の手になるものであったら、こうまで不思議な感慨に捉われることはなかったかも知れない。つまり外国人の眼というプリズムをくぐらせることによって、当時の日本と日本人の姿がくっきり見えてくるのである。そしてわずか百年ちょっと前の日本がいかに貧しかったか、いかに世界から孤立していたかが、不思議な感動とともに思い知らされる。
時おりこのように世界から孤絶した原日本ならびに原日本人の姿を思い起こすことは大切かも知れない。もちろん劣等コンプレックスを養うためではない。わが国には一世紀ちょっとの民主化・国際化の歴史しかないことを肝に銘じながら、急がず謙虚に日本ならびに日本人の未来像を構想していくためである。第二の鎖国など不可能だし愚かなことだが、現在のようなアメリカ一極集中追従型の「国際化」を疑ってもみない行政や教育機関の異常さを反省すべきである。その意味で東北は、もしかしてバード女史の言う日本の「奥地」だからこそ今まで見えなかったものが見えてくる場所かも知れない。
(3/2)
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ
-
最近の投稿
- 再掲「双面の神」(2011年8月7日執筆) 2022年8月25日
- 入院前日の言葉(2018年12月16日主日) 2022年8月16日
- 1968年の祝電 2022年6月6日
- 青山学院大学英文学会会報(1966年) 2022年4月27日
- 再掲「ルールに則ったクリーンな戦争?」(2004年5月6日執筆) 2022年4月6日
- 『或る聖書』をめぐって(2009年執筆) 2022年4月3日
- 【ご報告】家族、無事でおります 2022年3月17日
- 【3月12日再放送予定】アーカイブス 私にとっての3・11 「フクシマを歩いて」 2022年3月10日
- 『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』 2021年10月15日
- 東京新聞コラム「筆洗」に訳業関連記事(岩波書店公式ツイッターより) 2021年9月10日
- 82歳の誕生日 2021年8月31日
- 思いがけない出逢い 2021年8月12日
- 1965年4月26日の日記 2021年6月23日
- 修道日記(1961-1967) 2021年6月1日
- オルテガ誕生日 2021年5月9日
- 再掲「〈紡ぐ〉ということ」 2021年4月29日
- ある追悼記事 2021年3月22日
- かけがえのない1ページ 2021年3月13日
- 新著のご案内 2021年3月2日
- この日は実質父の最後の日 2020年12月18日
- いのちの初夜 2020年12月14日
- 母は喜寿を迎えました 2020年12月9日
- 新著のご紹介 2020年10月31日
- 島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月) 2020年10月20日
- フアン・ルイス・ビベス 2020年10月18日
- 宇野重規先生に感謝 2020年9月29日
- 保護中: 2011年10月24日付の父のメール 2020年9月25日
- 浜田陽太郎さん (朝日新聞編集委員) の御高著刊行のご案内 2020年9月24日
- 【再録】渡辺一夫と大江健三郎(2015年7月4日) 2020年9月15日
- 村上陽一郎先生 2020年8月28日
- 朝日新聞掲載記事(東京本社版2020年6月3日付夕刊2面) 2020年6月4日
- La última carta 2020年5月23日
- 岩波文庫・オルテガ『大衆の反逆』新訳・完全版 2020年3月12日
- ¡Feliz Navidad! 2019年12月25日
- 教皇フランシスコと東日本大震災被災者との集いに参加 2019年11月27日
- 松本昌次さん 2019年10月24日
- 最後の大晦日 2019年9月28日
- 80歳の誕生日 2019年8月31日
- 常葉大学の皆様に深甚なる感謝 2019年8月11日
- 【再掲】焼き場に立つ少年(2017年8月9日) 2019年8月9日
- 今日で半年 2019年6月20日
- ある教え子の方より 2019年5月26日
- 私の薦めるこの一冊(2001年) 2019年5月15日
- 静岡時代 2019年5月9日
- 立野先生からの私信 2019年4月6日
- 鄭周河(チョン・ジュハ)さん写真展ブログ「奪われた野にも春は来るか」に追悼記事 2019年3月30日
- 北海道新聞岩本記者による追悼記事 2019年3月20日
- 柳美里さんからのお便り 2019年2月13日
- かつて父が語っていた言葉 2019年2月1日
- 朝日新聞編集委員・浜田陽太郎氏による追悼記事 2019年1月12日
- 【家族よりご報告】 2019年1月11日
- Nochebuena 2018年12月24日
- 明日、入院します 2018年12月16日
- しばしのお暇頂きます 2018年12月14日