ソヴール [アントワーヌ] カンドウ神父の名前は、私の少年時代のある時期、文字通り黄金の輝きを放っていた。「朝日新聞」の名物コラムニスト、雑誌『心』などに拠った日本の(いささか右よりと思われた)錚々たる知識人とも互角に渡り合う、日本人より日本語の達者な「パリ外国宣教会」のバスク人神父。亡くなったのは昭和30(1955)年、享年58歳。そこで私はそっと安堵のため息をつく。つまりスチュワーデス殺人事件の前にこの世を去ったからである。生きていてまともな対応をせなんだら…
彼が羅和字典を作っていたことはつい最近まで知らなかった。昭和九(1934)年に公教神学校から、ということはほぼ自費出版のかたちで出した『羅和字典』が1995年に復刻されたことを新聞広告で見て初めて知ったのである。買いたかったが少々高値(三万五千円)でつい買いそびれた。その頃に比べると今は収入は四分の一以下(おいおいこんなところで家計報告などするな!)だが、不思議なことに気持ちはずっと金持ち(?)で、これまで買いそびれてきた本をネットで検索しては購入することにしている(いつまで続くか保証の限りではないが)。その字典も、なんと熊本県玉名市という聞いたこともない町の古本屋さんから新本同様のものを半額で手に入れたのである。
B6美装箱入り、布表紙、1,140ページの『羅和字典』のページをめくりながら、さてこれをどう役立てようか、などと考えている。果たして自分にはラテン語を本当に読んでいく気力が残っているのか…。いや、限られた時間であれ、できることを勇気をもって実践することだ。ともかく私にとってラテン語は、ルイス・ビーベスを読んで行くためのもの。その意味でいうと、研究社の『羅和辞典』(田中秀央編)より、カンドウ神父の字典の方が近代の堕落したラテン語を読むには適しているかも知れない。もちろんそれだけでは足りないが、いざと言う場合には恩師K教授からいわば形見分けとしていただいたでっかくて重いオックスフォードの辞典がある。
もう少し(いやだいぶ)若かったら、朝鮮語や中国語(魯迅を読むため)に挑戦したかったのだが、さすがにこの歳になって新しい言葉は無理である。だからせめて、一度は勉強したことのある言葉を死ぬまでもう少し頑張ってみよう。私の場合、ただただ読めればいいのだから。そう、明日からは少し気合を入れて(いつも決心ばっか)。英語はD. ベリガン作品を読みながら。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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