浜通り地方は午前中天気はぐずつきますが、午後には回復に向かうでしょう、との予報通り、大熊町からの帰途、行く手がしだいに明るさを増してきた。なぜか私は薄曇りや花曇の不思議な明るさの中で、思い出の小径へと導かれることが多い。少し意識を凝らせば、そのうちの一本へ容易に入っていけそうだ。幸い眠気もないことだから、運転に気をつけながら少しその小径を進んでみようか……
いや嘘をつくのはやめよう。以下のことは確かに車の中でフラッシュバック風に思い出したのではあるが、脈略をつけて思い出したのは家に帰ってきてからである。しかし夕食前にほとんど書き上げたのだがどうもしっくりこない。つまりなぜそれを想い出したのか、その意味が分からないのである。もちろん想い出なんてものはそんなもので、強いて意味づける必要はないのだが。いや待て、分かった、なぜそのことを思い出したのか。
花曇の中、一つの風景が浮び上がってくる。満州からの引揚げの途中らしい。これはどこの町だろう、小高い丘の上の、校舎のような建物が連なっている。そうだ私たちが逗留していたのは坂道の一番下の棟だった。ある日、その坂道を上がってくる他の棟の男の子にふざけて投げた小石が、まともに彼の頭に当たってしまった。数人の友だちもそれぞれに投げたのだが、私の石が当たったとの感触があった。幸い小さなたんこぶを作っただけだったらしいが、たいへんなことをしでかしてしまった。
夕刻、その子の棟の大人が数人押しかけてきた。私たちは玄関脇の物陰に隠れていたが、応対した私たちの棟の小父さんがしきりに謝っている声が聞こえてきた。たしかに石をぶつけたのは悪いが、その子からは以前それ以上の被害を受けていた。だからあそこまで無条件に謝るのは行き過ぎだくらいに思っていたようである。
男たちが帰っていったあと、小父さんはみなの頭をひとわたり撫でながら、世の中にはたとえこちらに非がなくても謝っておいたほうが丸く収まることがある、と言った。あのとき初めて世の中には「建て前」というものがあり、それが大人たちの世界を動かしているんだ、と落雷に打たれたように悟った。
そう、確かにこのことをきっかけに世の中の動きが本音と建て前の二重構造になっていることを認識し始めたわけだ。だがもう建て前はネクタイとともに捨てよう。残された日々、可能なかぎり本音で生きていこう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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