小泉純一郎に代表される日本の保守政治家に(いや政治家一般と言ってもいいだろうが)政治哲学が不在であるということが言われてきたが、しかし何を指してそう言うのか。簡単に言えば、アメリカ追従だけでなく現実追従以外の何物でもないということである。だからイラク武力攻撃容認をめぐっての今回の小泉答弁に見られるように、明確な理由説明などどだい無理である。ああだからああなり、こうだからこうなった。つまりもともと思想などありえないのである。
現実にぴったり寄り添う論理(実はその名に値しないのだが)は実に頑丈である。ちょうど机の端がそうであるように、生半可な理想論などいっぺんに撥ね返すほどのしたたかさを持っている。
しかしもちろん真の意味で思想の名に値するのは、実はそうした現実に一旦は拠りながら、しかもそこから強靭な意志をもって離陸するものの謂いである。現実から離陸できない思想は、はっきり言って思想の名に値しない。なんども引き合いに出して恐縮だが、セナンクール『オーベルマン』の主人公のように、
「人間は死すべきものである。――確かにそうかも知れない。しかし抵抗して死のうではないか。そして、無がわれわれに予め定められているとしても、それを当然と思わぬことにしよう」というところからしか思想は生まれようがないのである。もちろんこの場合、オーベルマンの言う「無」を「現実」と言い換えたが我田引水の謗りは免れているはずである。
現実から出発しつつ、しかもあるべき理想に向かって点線で仮説を立て、しかるのちにそれが実線となるべく具体的な方途を積み重ねる。これが政治哲学の通常の形成過程である。私自身政治哲学についてはずぶの素人ではあるが、それほど見当違いのことは言っていないつもりである。
もちろんこうして生まれた思想が、今度は現実を無視したり歪めたりして、人間の「生」を疎外する危険性はつねにつきまとう。だからこそ思想は絶えず現実からのチェックを必要とする。つまり「思想」と「生」の間につねに往還がなければならない所以である。
傍観者の立場からならなんとでも言えるさ、という皮肉っぽい反論はもちろん覚悟している。しかしぎりぎりの思索から生まれた言葉は、もしかすると生物細胞内のDNAよりも伝達能力を持っているかも知れない。いやそう信じて、以後執拗に反戦と平和の思想を構築していきたい。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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