三四日のあいだあれだけ咲き誇った櫻の花も、いまは息せき切って散り急いでいるように見える。その散り方をぼんやり見ていると、何十枚もの花びらが一気に落ちてくると思えば、次の瞬間、一枚も落ちてこない瞬間が間にはさまり、それもかなり永く続いたりする。吹く風の強さ加減かな、と思ったが、そうでもなさそうである。まるで櫻の樹がある時は大きく息をし、またある時はじっと息を止めてるように思える。
そんな櫻の落下の舞いを見ながら、先ほど下の古い茶箪笥の飾り棚から持ってきた二冊の豆本の装丁をしている。いや正確に言えば豆本とは言えないのかも知れない。横6.5cm、縦12cmの福音館書店発行の「古典全釈文庫」の『伊勢物語』と『徒然草』の二冊である。前者は1963年8版、後者は1964年23版。小さいながら上段に原文、下段に現代語訳が配され、脚注も解説も本格的のようである。中扉には毛筆で「昭和四十年二月、於広尾町求ム、幾太郎85才」と書かれている。母方の祖父、安藤幾太郎である。
この祖父は、晩年は長女のバッパさんが引き取り、最後は宮城県山元町の国立病院で亡くなった。彼の経歴については実はあまり詳しくは知らない。たしか一度結婚に失敗したあと、小高町大田和の安藤家に婿養子として入った。しかし山・田畑いっさいを株で失い、北海道十勝上士幌村への開拓団に加わる。だが実際は、野良仕事を祖母にまかせっきりで、自分は肖像画の行商(たしか自分では外交と言っていた)で各地を泊まり歩いた。肖像画家その人は宮城県の角田に住む人だった。考えてみれば、これはなかなかいい仕事だったと思う。なにせ内地から開拓に入ってさんざん苦労の末、先祖の肖像画でも飾ろうかというところまで来た家族にとって、その大事な先祖の絵を片田舎まで運んでくるじいさんは、それこそ幸せを運んでくる人に見え、ご馳走と暖かい夜具で精一杯もてなしたであろうからである。
その時、雪の吹き込む開拓小屋で、祖母はじっと孤独に耐えていたわけで、そのときの恨みは生涯祖母の心に棘のように突き刺さったままであった。あだ名をつけることに天才的な冴えを見せる息子は、この祖母を「おろおろおばあちゃん」と呼んだ。バッパさんに引き取られるまで住んでいた帯広と重ねられたあだ名である。死ぬ前、祖母は妻にもらったノートに、この恨みの半生記を書こうとしていたらしいが、はてそのノートはどこにあるのだろう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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