手帳とバイオリン

昨日、叔父のことを書きながら気になっていたことがある。恥ずかしいのだが、命日が十二月十八日ということは知っていても、父の正確な没年も、なんと生年月日も知らないのである。私が四歳の時、満州で結核のために三十三(三十四?)歳で死んだわけだから、逆算して生年は一九一〇年、没年は一九四三年ということになる。するとバッパさんの二歳上? 今さらこんなことを訊くとバッパさんに馬鹿にされるから、早急に別の手段で調べるしかない。
 父の死周辺のことは、おぼろげな記憶をたどって昔「ピカレスク自叙伝」に書いたことがある。題名は島尾敏雄の「アスケーティッシュ自叙伝」を意識してつけた。33歳、妻と幼い子供三人を残して死んでいく男の気持ちなど、「自叙伝」を書いたころ(二十六歳ころ)に分かろうはずもなかった。父の死んだ年齢をはるかに越えた今になって、遅まきながらようやく気になっている。
 「ピカレスク」に書いたこと以外、父のことはほとんど覚えていない。辛うじて、ベッドに横たわった一人の男の姿……だがその声音も顔つきもまるで記憶にないのである。父の遺品として今も残っているのは、小さな几帳面な書体で書かれた日記兼用の黒い表紙の手帳(今はたぶん兄のところにあるはず)、そしてケースに入ったバイオリン。しかしバイオリンの方は満州から持ち帰ったのではなく(その記憶がない)、叔父(父の弟)のところにでも預けていったものか。いずれにせよ、遺品はこの二つだけである。
 もう15年以上前になると思うが、前述の叔父の3(?)回忌を兼ねて、この叔父が生前強く望んでいた父方の「いとこ会」が相馬松川浦であった。あの機会を逃したら以後もうぜったいに不可能なこの会に、親子ほど歳の違う、しかもそれまで一度も会ったことのない「いとこ」たちが、北は北海道、南は名古屋から、その家族を含めて三,四〇人集まったのだ。そしてその3回忌の席上、スクリーンに映し出された昔の写真の中に父の若い姿があった。若いときの岡田英次ふうの実にダンディーな男であった(バッパさんにはもったいなーい!)。
 一昨夜、例の月一度の会食がわが家であった。先月からはもう一組の同級生夫妻が加わって賑やかだが、話はすぐ昔に遡ってしまう。戦争、貧乏、食糧難など私たち自身の経験もそうだが、私たちの親たちの経験もまた次代に伝える義務があるのでは、というのがその楽しい宴(私の作ったパエーリャもどきもなかなか好評)の結論であった。
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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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