今日も書棚の探索は続く。今日の獲物は『農村教師の夢』である。実はこれは母方の叔父安藤誠一郎の遺稿を息子三人が非売品として刊行したもの(1982年、旭川)。「あとがき」によると、前半部は「母が病気になる前の、我々の育った家庭が平穏だった頃に書きはじめられ、母の死後数年の間までに書かれたもの」、そして後半部は、「母の死後に書きはじめられたもの」ということである。ちなみに叔母は1955年に33歳で、そして叔父は1965年50歳でともに病死であった。
「序」には「高原の貧乏部落の教室に描く、とりとめもない私の止み難きあの夢この夢」とあるが、328ページにわたって書き止められたのは夢だけではなく、世間的には不遇の一生を送った叔父の社会批判、とりわけ教育界に対する絶望的なまでの異議申し立てである。高原の貧乏部落とあるのは、十勝の国、上士幌村勢多の開拓部落のことで、私も一度尾根伝いにその分教場を訪ねたはずだが、しかし校舎などの記憶はいっさい消え、残っているのは、草むらを棒切れで払いながら先導する白い半袖Yシャツ姿の叔父の背中だけである。
今回「あとがき」で、叔父が死んだのが1965年11月13日であったことを確認したが、その時、私は上石神井のJ会哲学院にいた。広島での三年間の修練ののち上京して哲学の勉強を始めたばかりであった。叔父叔母の中で、性格的にも一番近かったためか、バッパさんの直ぐ下のこの叔父が昔から好きで、叔父の方でも私を好いてくれていると信じていた。だから長い病気療養の末とはいえ、この叔父の死はかなりこたえた。
二歳下の従弟・島尾敏雄が小説家として世間に認められ始めたことを、叔父がいささか複雑な気持ちで受け止めていたのを覚えている(「九州の作家仲間の後押しがあったから……」)。父・幾太郎の実にプラグマティック(?)な考えから、文学の道を諦めて獣医大に進んだ彼だが、結局は寒村の教師となり、そして最後は長い長い療養生活が待っていた。相思相愛の叔母に先立たれたあと、三人の幼い男の子たちのこともあって再婚したが失敗、そして最後は力尽きて50歳の若さで世を去った。そういう父親の姿を見ていたからか、長男は医者となり、大学や大病院の栄達の道を捨てて現在は上士幌で診療所を開いている。
昨夏(8月3日)のモノディアロゴスに載せた「旅のアルバム」という詩は、この叔父の三人の息子たちと叔母を想って書いたものである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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