箱入り息子

一気に夏になったような陽気が続く。昨日はいつもの大熊詣でだったが、沿道の水田からは水蒸気が立ち昇っていた。初めて見る光景である。物理的な知識無しに言うのだが、これは外気温そのものはそれほど高くないのに、輻射熱で水田の温度が上昇し、そのため立ち昇る水蒸気が白く靄状になったのでは、と思う。ところによっては、水田の上全体に靄がかかって海面のように見え、今にも道路に海水がひたひたと押し寄せるかと思われた。「あれは何だ!」と叫ぶ私に、「あれは海よ」と妻が平然と言い切るほどであった。どう考えても海は2、3キロ向こうである。もっとも妻のこの素っ頓狂な反応は、ボケが入ったからではなく昔からのもの。なにせ方向音痴はものすごく……いや、パートナーの恥は私の恥だからこの辺で。
 その暑さは今日も変わりなく、日中、二階縁側では半袖シャツ一枚で過ごせるほどであった。初夏到来とともに わが家の猫たちも日中は外で遊び呆けているようだ。腹が空くと鳴きながら帰ってくるが、食べ終わるとまた出て行く。家の前の空き地や、藤棚、濡れ縁と、行き場所に困らない。これが道路に面した家だと車に轢かれる心配があるが、わが家は路地裏の行き止まりなのでその心配は無い。でも時おり、八王子に置いてきた四匹の猫たち(もちろんあのドブも入れて)のことが心配になる。川の流れを変える工事のせいで、道路が角地の家を囲繞することになり、猫たちの危険が増大したはずだからである。
 しかしわが家の犬はそうした危険とはまったく無縁。なぜなら妻が時おりクッキー(11歳の牡のミニチュア・ダックス)に向かって「何の因果かねーこんな体になってしまって。おーおー、ほんに可哀相に」と嘆いているように、4年程前から下半身不随となり、一日中プラスチックの箱の中で暮しているからである。だが有難いことに、広げられた新聞紙二枚の上の紙おむつの上ですこぶる元気である。一時期、妻はまるで育児ノイローゼの母親のように、ドッグフードの上にチーズを撒いたりスープをかけたり、しきりに食べさせようとしたため完璧な肥満体になってしまった。もちろん今はいくらせがまれても、不憫だが、高齢・肥満・アレルギー対策用のフードだけしか与えない。そのせいあってか、このところ心なしか軽くなってきた。軽量化に成功すれば麻痺が取れるかも、という獣医さんの言葉を信じて、今はひたすら減量作戦に熱心である。
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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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