吾一と次郎

中国からの留学生O. Gさんが日本語の勉強のために山本有三の『路傍の石』を読んでいる、という。私自身、むかし愛読したことがあり、主人公吾一の姿はいまも強烈に残っている。O. Gさんの来訪が都合で一週間延びたので、いい機会だからお会いする前に読み直してみようと思い、書棚から『山本有三集』を探してきた。そして今回初めて知ったのは、それが未完の小説だったということである。最終章の「次野先生」のあと、実は「お月さまは、なぜ落ちないのか」という章を書き継いだのだが、そこに登場させた一社会主義者のことばに内務省検閲官が難癖をつけ、それが直接の原因で「ペンを折る」(昭和15年6月)を書いて執筆を断念したらしい。
 そして今回もう一つのことに気付いた。つまり下村湖人の『次郎物語』との不思議な符合である。湖人が生まれたのは明治17(1884)年、有三は20年、『次郎物語』の連載開始が昭和11年、『路傍の石』のそれは翌12年、両作品とも滔々たる軍国主義の波に翻弄されて中断を余儀なくされる。両作家が互いの作品をどう意識していたのか、あるいは一方的であれ相互的であれ両者になんらかの影響関係があったのかどうかは知らない。この二人の作家ならびに二つの作品に関する比較研究など、もうとっくにだれかがやっているのかも知れない。もしまだだとしたら、両者両著の比較は実に面白いテーマだと思う。ちなみに両作品とも戦前に一回、戦後に二回、ともに映画化されていることでも共通している。昭和45年の『路傍の石』(久松静児監督)には原節子も出演していたらしく、いつかぜひ観たいものだ。
 軍国主義日本に対して違和感あるいは嫌悪感を覚えた点、そして明確な左翼思想へと向かわずに日本的なリベラリストであり良質の保守主義者であり続けた点でも両者は実に近い距離にあった。
 そして両作品とも一種の国民文学として多くの少年たちを惹きつけたのは、「年若い主人公が社会との葛藤を体験しながら生来の素質を発展させ、個性的人格を形成してゆく過程を描く」(集英社『世界文学大事典』)いわゆる教養小説だったからであろう。しかし吾一や次郎の影響下に少年・青年時代を送った世代はいつまでだったのだろう。そしてその後は鉄腕アトムやガンダムが完全に取って代わったのであろうか。もしそうだとしたら、寂しいし残念でもある。今の少年たちが二人の少年にどう反応するかぜひ知りたいものだ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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