古い住所録の中の名前たち

新棟二階のバッパさんが寝室に使っている六畳洋間の作り付けの書棚には、何十年かの埃をうっすらかぶった文庫本などが、かつての持ち主に発掘されるのを根気よく待ち続けている。今日は朝からどんよりとした曇空、さしあたってやることもないので(そうかな、あれがまだ手付かずだぞ)少しずつ持ち出して整理することにした。
 ついでに文庫本の中に古い住所録を見つけた。東海銀行(接点など無いはず)が顧客に配布した小さなノートで、昭和36(1961)年発行のもの。というと大学三年のときだ。最初のページにいきなりラテン語が書かれているところをみると、J会入会の決心をした後ということである。

Valde enim gravatur interior homo necesitatibus corporalibus in hoc mundo.
(内的な人は、この世における身体上の必要事を非常に重荷に思う)。

 あらあら、また何と偉そうに。もっともこれは『キリストに倣いて』あたりからの引用と思うが。
 ぱらぱらとページをめくると、次々と懐かしい名前が出てくる。どうしても思い出せない名前もいくつかある。高校時代の友人たちの寄せ書き風の署名・住所もある。もちろん無音(ぶいん)のまま冥界に入られた方々の名前もある。そして後の方に、「1965年 光の園卒園生」とあって六人ほど男の子の名前。たしかこれは広島の「少年の家」の子どもたちではなかったか。名前の後に、佐伯郡廿日市町K商店、比治山町Dモータースなどの商店名は、この子たちの卒園後の就職先らしい。1965年というと2年間の修練のあと少年の家やその他に実習に行かされたときの記録であろう。なるほど次のページにはJ会経営のH学院中高生の名前や、島根県松江市カトリック教会夏期学校生徒の名前が続く。
 ここに記された住所をたどったとして、そのうち何人の消息が分かるだろうか。そしてそのうち何人が互いを覚えているだろうか。
 ともあれ、ある時、間違いなくすれ違い、触れ合った名前の持ち主たち。もしもあのころ、カメラ付きのケータイや軽便なデジタル・カメラなどがあったら、名前だけでなく映像としても長い時の経過に耐えて残っていたかも知れない。しかし、深く暗い忘却の底から、ある時、思いもかけぬ形で蘇ってくる不確かでミステリアスな記憶というものもまた捨てがたい。というよりその方が人間らしく不完全で好ましいのかも知れない。すべての過去がまざまざと現前するとしたら、むしろその方が不気味である。
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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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