読みたい本、読まなければならない本が山積しているのだから、読みたくもない本はさっさと整理してしまえばいいのだが、時に自分が買ったはずもない本が未整理の山の中から出てくることがある。かつてここに住んでいた姉の一家が置いていったものか、バッパさんが買った本か、あるいは結婚前に妻が所有していたものかである。今日もそんな本が一冊出てきた。もしかすると今の宰相よりも人気がある帝都の「アタマ」が昔書いた『キレツ』という本である。こんなもの絶対に私のものではない。この男のデビューを賑々しく飾った処女作『大洋の季節』さえ読む気もしなかったのだから。この男の舎弟が銀幕のスターとなったときも、このチンピラ風情が、と思っていたし、その評価は彼の死後も毫も変わらない。『ワシとタカ』という海洋冒険映画では、ライバル役で出てきた四国連次郎の方がはるかにカッコ良かった。
好き嫌いはどうしようもない。けれども志賀直哉の言い草ではないが、理性は間違うが感情は誤ることはない、というのもまた事実である。彼の作品をきっちり読んだことはないが、本屋などでちらっと立ち読みしたことはある。要するに、私の中には、彼の文章はなってない、という微動だにしない評価が早くから固まってしまったのである。とりあえずは悪文と言うしかないが、しかし悪文と言われるライバル近江健一郎の日本語は、翻訳調でねちっこく、けっして読みやすくは無いが、しかし文学性(と曖昧な表現を使うしかないが)があり、それなりの魅力がある。ともあれ今日見つかった作品は、こういう日本語で始まるのである。
「クラブの狭い階段を下りて行くと、ビリーの弾くベースの音が響いてきた。明(めい)はこの音が好きだ。華やいだクラブの雰囲気の底に彼にははっきり感じられる暗い陰気な流れの影を、入り口の戸の外で聞くベースの響きは伝える。」
いっぱしの愛国者・国士を気取り、日本国家の伝統を固守するとほざく男の日本語がこれなのだ。三流の右翼だってこれ以上の日本語は書けるぞ。こんな男に帝都を任せている選挙民も選挙民だが、宰相に祭り上げようなどというバカな動きもあるそうだ。ざけんじゃない。
現宰相や帝都の知事の対抗勢力が使うものと同じ言葉を使いたくはないが、しかし彼ら二人に共通するものを表現しようとすれば、どうもポピュリズムという言葉以外のものは見つかりそうにない。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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