ちょうど中国人留学生O. Gさんがわが家に逗留中の昨日、古本屋に注文していた蒲松齢『聊斎志異』(松枝茂夫・益田渉訳、平凡社)二巻本が届いた。かなり古びて痛みもひどいその二巻本はもちろんさっそく合本にされ、背革・布表紙の豪華本に変容した。そして気になっていた「こおろぎあわせ(促織)」をさっそく読んでみた。内容自体は安岡氏の要約をそれほど越えないが、息子の生まれ変わりと思しき蟲との出会いのくだりは、なにとはなしに哀れである。「哀切」という日本語がこの挿話全体の主調低音であるのは予想通りであった。たとえば息子の死の翌朝、戸外に鳴いているこおろぎを追いかけていってふと見つけた別のこおろぎは、あまりに小さくて「ものにならぬ」と思い行き過ぎようとするが、そのこおろぎの方から男の袖と襟のあいだに落ちてきたというあたりは、このコント(物語)がいわゆる一人の作者の創作というより、民衆の無意識の領域をも含むフォークロア発生の流れの中から誕生したことを示していて興味深い。
いずれにせよ、いかに独創的な作家といえども、真に読者の心を打つ作家であるならば、必ずやこのフォークロアの流れに掉さしているはずである。つまり、いつの時代からか(古典古代以降?)、すべての作品は傍注に過ぎないと思ったほうが正解であろう。その点、現代日本文学には、と言えるほど読んではいないが、前頭葉だか後頭葉だかのちりちりとした感覚の鋭さだけが突出していて、ずしりと腹に響くような作品に出会うことはまず望めないのは、もしかするとそうした流れから遊離しているためかも知れない。
「ミホがキリギリスになっている。機嫌を害ねて跳びはねたところ、鳥籠の中にはいってしまった」(『夢日記』、最終ページ)。
唐突に島尾敏雄のこのキリギリスを思い出したのも、午前中、O. Gさんと妻を隣町の「埴谷・島尾記念文学資料館」に案内したからだが、彼のキリギリスも『聊斎志異』のコオロギの生まれ代わりであり、あのいかにも島尾ワールドな『死の棘』自体にも、『聊斎志異』に数多く含まれる恐妻・狂妻・悪妻そして良妻物が大きく影を落としている。とりわけ島尾敏雄が九州帝大で東洋史を専攻したことなどを考え合わせてなおさらそう思いたい(学生時代、熱河にいた私たち一家を訪ねてきたこともある)。つまり島尾敏雄の文学を貫流する大きな流れの一つは中国文学である、と言いたいのである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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