バッパさんを八時二十分、I病院に送っていく。仙台の大学から若い先生が来るので検診してもらうためらしい。そのあと老人ホームにタクシーで回るからいつもの通り三時に迎えに来いと言う。車を降りぎわに「ここに満州のことについて書いてあっから」と黄色い表紙の小冊子を置いていった。福島文化センター内「近代文学であいの会刊行委員会」の『であい』第8号(1982年1月発行)である。
帰宅してからさっそく見てみる。「思い出の中の中国大陸」というバッパさんの文章が載っている。昭和19年秋、国境沿いの古北口の秋祭りに、校長先生と二人で20人ほどの生徒を連れて行ったときの思い出から始まっている。ちなみにその時、まだ学齢に満たない私もお母ちゃん先生にひっついて行ったことが今も残る写真に記録されている。ともあれ、バッパさんの文章を抜き書きしてみる。
「…十八年の十二月に主人は現地で亡くなっていますので、ちょうど一年目を迎える頃でした。古北口は、北京に通ずる鉄道沿線の小さな町で、日本軍の駐屯部隊のあったところです。…私は、今になってどうしてあの日のことを、はっきり思い返しているのでしょうか。…一行の中には、当時満人と称していた中国人官吏の上役がひとりいましたので、特に印象深く、その人の表情まで思い浮べることができるのです。大様でゆったりした面持ちには、いかにも中国の大人(たいじん)といった風格が感じられました。…
さて私が思いめぐらしていた考えというのは、甚だ素朴なものですが、とに角、興安嶺の畳々(じょうじょう)たる山なみをながめた時、そして地平線の見えないような広漠たる蒙古の大平原の真只中に立った時、このまま西へ西へと行けば、ヨーロッパ大陸を越えて、更に大西洋に出られるという実感は、コロンブスが海を渡って行けば、印度洋に出られるのだという自信と同じ気持ちに通ずるものがありました。同時にまた《中華》という思想の根元に突き当たったような気持にもなりました。大東亜共栄という旗じるしのもとに、力の政策で大陸に侵略したことについて…良心的に考えるところがあったのでしょう、主人が生前中に、省公署の方との意見交換の席で、強い口調で《日本人は全部出直して来てほしい。出直さなければいけない》といったことばが、はっきり私の心にささっていました」。当時バッパさん三十三歳、これを書いた時七〇歳。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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