月夜の啓示

ランペイのわが家のたたずまいを伝える一枚の写真がある(あったはず。実はまだ見つからない)。単身赴任していた父と家族が合流して間もない写真と聞いたが、レンガ造りの家の玄関先で写した写真である。ドアまで四、五段の階段がついている。しかしこの家の内部の記憶はほとんどない。たしか裏に小さな畑があり、前にはわずかなスペースの花壇があり、その向こう、つまり南側に役所か学校のやはりレンガ造りの建物があったと思う。ただ父が結核で寝込むようになってからの家の中は少し思い出すことができる。三間あった平屋の、いちばん西側の部屋の壁際に父のベッドがあったからである。
 しかしその他の記憶はきれいに消えている。唯一覚えているのは、ある日、部屋と部屋のしきりにカーテンを下げたから、絡まないで潜り抜ける練習をしろ、とバッパさんに命じられ、きょうだい全員(それぞれ二歳ちがいの兄と姉と私)いやいややったことである。また台所がどんなふうになっていたか、もちろん覚えていない。ただある月明かりの夜、知人の家にお呼ばれして帰ってきたときの暗がりの中の台所を、なぜかぼんやり思い出すことができる。季節は秋と思う。父の気配が無いから、19年の秋ということになる。知人宅というのは、警察官をしていたMさんの家で、一人娘のIちゃんは姉と同い歳ではなかったか。可哀相にIさんはシベリア送りとなり、帰国できたのは終戦後だいぶ経ってからだと思う。
 私がH市のJ会修練院にいたとき、一度Y県H市にいたMさんを訪ねたことがある。奥さんはとうに亡くなられ、Iちゃんはそこのカトリック系の女子高を出たあと、遠い九州のN市に嫁いでいた。M氏からすれば不本意な結婚らしく、しきりにぼやいていた。
 それはともかく、あの夜の月明かりのなんと神秘的であったことか。月の光の中ではすべての物象が日中とまったく異なる相貌を見せることに生まれて初めて気がつき、なぜか感動していた。台所の窓から差し込む月の光の中で、竈やお釜や鍋が蠱惑的な輝きを見せていた。そのときの感動は、これまた奇妙なことにジャガイモを千切りにしてカレー粉をまぶした炒め物(何という料理かは知らない)の味と切り離せないのである。その夜Mさん宅で出されたのか、それとも帰宅後バッパさんが作ってくれたのか。
 一度相馬まで来てくれたそのMさんもすでにこの世にいない。せめてIちゃんに会いたいな、と思う。
                                 

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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