新潮文庫の『コナン・ドイル傑作集』のⅡとⅢがネットの古本屋さんから届いた。整理中の本の中には上だけあって下がないのものなど珍しくなく、いちいち欠本を補充するなんてことをすればキリが無いのは分かっているのだが、Ⅰだけしかないのが変に気になって、ついⅡとⅢを注文してしまったのである。たしかホームズ物や『パスカヴィルの犬』などの中・長編は中学時代にほとんど全部読んだはずだが、『傑作集』の方はまだ読んでいなかったのである。
しかし考えてみれば、ここ何十年も推理小説にわくわくしたことなど絶えてなく、今読んでも果たしてドイルの世界に入り込めるかどうか甚だ疑問である。推理小説にかぎらず、本そのものを読む根気も速度も極端に落ちてしまい、昔たとえば『カラマーゾフの兄弟』を徹夜して読んだときのエネルギーなどもうどこを探しても見つからない。それに速読の習慣がないので、推理小説の類でも斜め読みができない。これからその技術を習得することはまず無理だろうから、単純に計算しても、それほど多くない日本語の本さえ死ぬまで(あゝこういう表現がこのごろ頓に多くなって自分でも嫌になる)読めるのはわずか、ましてやスペイン語となると、下手をすると背表紙を見るだけで終わる本が大半であろう。
それはともかく推理小説は好きで、松本清張のものはほとんど読んだし、チャンドラーのハード・ボイルド物(?)やマイ・シューヴァルの警察物(?)が特に好きだった。なにかと多忙だった静岡時代まで、つまり四十代後半まで結構読んでいたのである。ひところは夢の中にまで尾を引くことがあって、あるとき完璧なプロットを考案したことさえあった。もちろん夢が覚めてしまえば、だれにでも見破られる陳腐な筋立てだったが。ともあれ、かつては『陸橋殺人事件』のロナルド・ノックスのように、生涯一冊でもいいから傑作を書きたいと夢想したこともあった。今考えると、いやいつ考えても同じことだが、推理小説などこれからも書けないであろう。
しかしせめて時間を作って、昔読んで感心した作品をゆっくり読み返すことはしたい。アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』、チェスタトンのブラウン神父物、新しいところではトレヴェニアンの『夢果つる街』……でもとりあえずはドイル(典型的なアイルランド人の名前なのに今までそれを意識したことがなかったが)の『傑作集』から、楽しみながら読んでいこう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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