もちろん今日も曇りである。時折陽が射すことがあっても、しっかりと曇り空に戻る。かーっと照りつける酷暑の日を思い起こして、ありがたいなー、この涼しさは、と思うことにした。……窓ガラスを打つ雨、室内は薄暗く、隣の部屋のベッドは主を失って、暗がりの中に蟠っている。窓の下の、あれはみかん箱を横にしたものか、その中に立てかけられている重く黒い本を取り出してみた。兄も姉も学校、父が死んでから、母も学校の先生になってしまった。
父がいない生活にも少しずつ慣れてはきたが、姉など時に眼が真っ赤に充血していることがある。私は叱る人が二人から一人に減ってむしろ気楽になったが、こういう雨の日、家の中にだれもいない時など、やはりお腹のあたりがひゃっこくなるような寂しさ、心もとなさを感じる。
先日、遠い蒙古から叔母さんが訪ねてきてくれた。母の弟の奥さんだ。従弟のMfちゃんをおぶって来たはずだが、なぜかMfちゃんの姿を思い出すことができない。みんなが学校に行ったあと、叔母さんと二人だけで家の中にいることがものすごーく辛くなってしまった。どうしてだか、自分でも分からない。寂しくて寂しくて、とうとう押入れの中にもぐりこんで泣いてしまった。母が帰ってきたとき、叔母さんが、こんなに大きくなったのに困ったわねー、と告げている。いつもは優しい叔母さんなのに、なんでこの気持が分かってくれないのだ。
季節はいつになっていたのだろう。雨が降り続いていたから、夏に近い日のことだったか。取り出したその大きな本の見返しには、細かい筆致の線描画があった。神殿の中央に一人の男が両腕を広げ、その背後に、光の束が空から地面まで斜めに走っていて、まるで空が真二つに裂けたようだ。これが先日母が話していた世の終わりなんだろうか。
神殿の上空のあの暗さは尋常ではなかった。空全体が帯電したかのように、金属片でも投げ上げれば、一瞬のうちに世界全体が炎上するかのように思われた。一人一人の死さえ恐ろしいのに、その後に世界全体の死が待っているとしたら……
いつもの時間にいつものように夕食を整えたが、センターに出かけたはずのバッパさんがまだ帰って来ない。テーブルの上の料理にラップをかけていると、電話が鳴った。「今話し合いが続いててー、もう少しかかっけど、しんぺーねーから」。バッパさん、ひょっとして世の終わり意外とちけーかもよ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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