久しく小説を読むことがなかった読み手の方の問題かも知れない。J・M・クッツエーの『恥辱』(鴻巣友季子訳、早川書房)を昨夜読み終えたのだが、簡単に言えばどこかはぐらかされた感じなのだ。ストーリーの展開を縦糸とすると、実生活の有為転変の中でも不思議と執筆をあきらめないオペラ台本(バイロン卿とイタリア女のテレサが登場する)が横糸になっているのだが、それがどうもこじつけ気味でしっくりこないのだ。それは小説としての弱点、つまり構造的欠点なのだろうか。
しかし倫理的・道徳的な白黒、だけでなく論理的な断定を避け、物事をすべて宙空に浮かせるというのがどうもクッツエーの手法らしい。だから「はぐらかされた」と感じたのは、彼の術中にはまったからとも言える。
もしかしてそれは、かつての白人絶対優位の社会から、黒人先住民が権力の中枢を占める社会への移行に伴って、未だ政情のみならず、人間社会そのものの仕組みがぎくしゃくしているアフリカで、主人公のようにいざとなったら逃げ帰るべき「祖国」(オランダ)を持つ、そしてヨーロッパ的知性の中で人格形成を遂げた男の「ビミョウー」な立場から醸し出される感懐かも知れない。その意味で言うと、黒人の闖入者に暴行され、そのときの子を身ごもりながら中絶を拒否する娘の生き方に、作者は父親の曖昧な生き方のいわば清算をさせようとしているのかも知れない。しかしそうだとしたら、主人公同様、作者の「逃げ」はちといただけない。
自分がアフリカに生きなければならない白人だったら、と考えたら早急な批判は差し控えなければならないが、それにしても黒人ならびに黒人的なるものが、あの三人の闖入者たちのように、暗く不気味で意味不明のものという域を豪も越え出ていないことが、私としてはもっとも不満が募るところである。
この一作だけでクッツエーを判断する気はないが、先般の芥川賞は言うに及ばず、ノーベル文学賞もこの水準かと思うと、いよいよ昨今の文学に対する白けた気持が動かないものとなる。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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