クッツエーの『恥辱』

久しく小説を読むことがなかった読み手の方の問題かも知れない。J・M・クッツエーの『恥辱』(鴻巣友季子訳、早川書房)を昨夜読み終えたのだが、簡単に言えばどこかはぐらかされた感じなのだ。ストーリーの展開を縦糸とすると、実生活の有為転変の中でも不思議と執筆をあきらめないオペラ台本(バイロン卿とイタリア女のテレサが登場する)が横糸になっているのだが、それがどうもこじつけ気味でしっくりこないのだ。それは小説としての弱点、つまり構造的欠点なのだろうか。
 しかし倫理的・道徳的な白黒、だけでなく論理的な断定を避け、物事をすべて宙空に浮かせるというのがどうもクッツエーの手法らしい。だから「はぐらかされた」と感じたのは、彼の術中にはまったからとも言える。
 もしかしてそれは、かつての白人絶対優位の社会から、黒人先住民が権力の中枢を占める社会への移行に伴って、未だ政情のみならず、人間社会そのものの仕組みがぎくしゃくしているアフリカで、主人公のようにいざとなったら逃げ帰るべき「祖国」(オランダ)を持つ、そしてヨーロッパ的知性の中で人格形成を遂げた男の「ビミョウー」な立場から醸し出される感懐かも知れない。その意味で言うと、黒人の闖入者に暴行され、そのときの子を身ごもりながら中絶を拒否する娘の生き方に、作者は父親の曖昧な生き方のいわば清算をさせようとしているのかも知れない。しかしそうだとしたら、主人公同様、作者の「逃げ」はちといただけない。
 自分がアフリカに生きなければならない白人だったら、と考えたら早急な批判は差し控えなければならないが、それにしても黒人ならびに黒人的なるものが、あの三人の闖入者たちのように、暗く不気味で意味不明のものという域を豪も越え出ていないことが、私としてはもっとも不満が募るところである。
 この一作だけでクッツエーを判断する気はないが、先般の芥川賞は言うに及ばず、ノーベル文学賞もこの水準かと思うと、いよいよ昨今の文学に対する白けた気持が動かないものとなる。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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