あれは確かJR大塚駅から乗った荒川車庫行きチンチン電車の中のことであった。週に一度、西ヶ原四丁目の東京外語に教えに行っていた頃の話である。一組の老夫婦が車中で喧嘩を始めた。いや喧嘩なんてものではなく、婆さんの方が一方的に爺さんを口汚く罵倒し始めたのである。どうしてそれほど激昂していたのかは分からないが、およそ常軌を逸しており、病的なものさえ感じられた。
夫婦喧嘩は犬も喰わない。もちろん乗客はみな知らん振りをしていたが、婆さんのあまりのしつこさに、乗客もたまりかねたのか、明らかに婆さんに対する非難めいた咳払いのようなものも聞こえ出した。おそらく婆さんは連れ合いのトロいことを難詰していたに違いない。こちらは途中で降りたから、それからどうなったかは知らない。
それとは逆の光景にも何度も出会った。退職して間もないような初老の夫が、それまでしたことのない夫婦そろっての外出で、やたら妻を怒鳴りつけている光景である。もしかすると、こちらのケースの方が多いかも知れない。どちらにしても、本人にはやむに止まれぬもっともな理由があるのかも知れないが、傍から見てけっして見好いものではなく、いいかげんにしろ!と言いたくもなる。
二人三脚、同行二人(どうぎょうににん、もともとは弘法大師と二人の意味らしいが、それを夫婦二人に拡大解釈して)、その歳まで連れ添ったんだから、最後は仲良くしろよ、と言いたくもなる。いや、これは自戒をこめて言っているのである。
記憶力や動作の速さでは、少なくとも今のところ妻より私の方が上である。妻のあまりのとろくささに、思わずでかい声になるときがある。あゝ醜いなあーと反省する。そうだ、ゆっくり仲良くボケていこう。どうってこたねえことばかりだもん。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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