佐世保の小学女子児童の殺傷事件にインターネットがどの程度かかわっていたか、見極めの難しい問題である。今日の「朝日」の社説「ネットの海にただよう子」は、そんな難問に近づくためのいくつか重要な示唆を含んでいる。最近あまり新聞の見出しなどに感心することは無いが、今回の見出しはなかなかいい (もっとも私だったら “ネットの海に漂う子供たち” とするであろうが)。適切な指導も準備もなく、得体の知れぬネットの海に乗り出す子供たち。「総務省の昨年末の調査によると、小学生のインターネット利用率は六二%に達した」という。ケータイなら分かるが、まさかインターネットの利用率がそこまで伸びているとは思ってもいなかった。もっともこの数字は、授業の一環としてインターネットに触れてみることも数えているのかも知れないが。
私自身、いわゆるハンドル・ネームを使ってはいるが、匿名性の陰に隠れようなどと思ったこともない。この「日録」に限らず、他人からはなにもそこまで露出しなくても、と思われるくらい自分を表現してきた。しかしそれでも隠しておきたいこと、他人に知られるとヤバイことはゴマンとある。かと言ってそんなことまでさらけ出すつもりは毛頭ない。それに表現したい自分は、生きている以上無限と言っていいほど次々と出てくる。それだけ人間は深淵をかかえた存在だということである。
今日の夕刻は、日の翳り方とか、一日中蟠っていた熱気が柔らかい風に次第に鎮められていく様子とか、急にスペインの夏が懐かしくなる瞬間があった。それで久しぶりにアリアドネというサイトの中をスペインの地方紙を探して歩いてみた。グラナダ、アリカンテ、ラ・コルーニャなどかつて訪ねたことのあるスペインの町々が出てきた。それでは今日はセビリアにしようか。今日の最低気温十七度、最高気温三四度。あの炎熱と目を射る光の町セビリア、そして夕方、路地裏を吹きぬける微風の感触まで思い出した。
いや言いたいのは、それでなくても辛く狭い人間関係を、さらにチャットで濃密で抜き差しならぬものにするのではなく、ネットの青い海原の波頭を越えて、未知の大陸を、未だ見ぬ魂たちを目指して、爽やかな海風に吹かれて彷徨う楽しみを、若いインターネッターに勧めたいのだ。来週から始める自主「スペイン語講座」も、そんな夢航海の手助けになればと思って始めるのですぞ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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