「私も昔これやられたことがある!」ととつぜん妻が叫んだ。近所から聞こえてくる奇妙な声のことを言っているのである。はじめは何のことか分からなかった。もしかして近所に智恵遅れの大人がいて、休みで施設から一時帰宅しているのかな、などと考えた。しかしそれにしては変な中間音で、時にお経のようにも聞こえる。
朝食のあと、二階廊下の机に坐った途端聞こえてきたその得体の知れない声は一向に止まる気配がない。終わったと思ったら、また意味不明の短い言葉が発せられ、続いて嫋々たる中間音が、そしてときおり鈴の音が入る。そのときである、いつのまにか後ろでやはり耳を澄ましていたらしい妻が短く、しかし確信的に叫んだのは。
どこから聞こえてくるのか。もしかして……ふだんはとても穏やかで、田舎には珍しい知的な感じの、あの老婦人の家からかも知れない。でもあえて確めることもしなかったので、まったくの見当違いの可能性もある。しかしもしその家から聞こえてきたとしたら、分からないでもない。むかし大変不幸なことがあった家だからだ。つまり年に一度、故人の命日あたりに、いわゆるお清めをしてもらっているのかも知れない。
しかしその声は普通のお坊さんの読経とはまるで違っていた。普段は表に出ることもなく、死や不幸の際に密かに呼ばれて清め、お払いをする行者さん(?)の祈りらしい。小さいころ異常に癇が強かった妻は、なんどかそんな行者さん(といっても女性だったらしいが)のところに連れていかれた。今でもその家のたたずまい、おどろおどろしい祈祷師のお祓いのことを覚えている。
迷信、邪教と言うまい。いわゆる大宗教といわれるものにあっても、跋魔師(エクソシスト)の類いはあり、道具立てや声音がすこしばかり洗練されただけであって、原理(?)はさして変わらない。要は、身体のなかに住み着いていると思えるほどの悪や不幸や苦しみがあり、それらを振り払うには、時に物理的といえるほどの激甚な儀式を必要とするということであろう。だったらそれはおどろおどろしいものであればあるほど効験あらたかかも知れない。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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