金房尋常小學校

小高浮舟文化会館での月一度の「文学講座」で、今年は埴谷雄高を中心に話を進めている。といって、受講者の中で埴谷さんの作品を読んでいる人は少ないので、結局は埴谷さんをダシあるいはきっかけにして、人間学的な内容の話をしている。というか、強引にそうさせてもらっている。例えば先月は、埴谷さんの対談集のタイトル(架空と現実、黙示と発端など)に顕著に見られる思考法、つまり二つのあい対立するものを、そのどちらも否定することなく、むしろ矛盾対立をさらに際立せることによって、新たな領域に飛躍するという方法論を、ウナムーノの思想を援用して考えてみるなどのことをやっている。
 今日もその延長線上で、埴谷文学がなぜ暗黒・闇・夜、そして究極的には死にこだわり続けたのか、という問題を、「近代」が称揚し追い求めてきた価値観との対比から考えてみようとした。もちろん問題そのものやその用語は、おそらく受講者の大半にとって唐突に響くと思うが、それをできるだけ日常的なものに引き下ろして考える工夫をしている。
 今回も10人ほどの参加者(もちろん妻も入れて)を前に悪戦苦闘した。でもこちらの思い過ごしかもしれないが、なんとなく理解してもらえたのではないかとの手ごたえを感じた。なかでも今日初めて(と思う)参加した上品な老婦人がしきりに相槌を打っているのが目の端に入っていて、大いに勇気づけられた。
 話を終えて廊下に出たとき、先ほどの老婦人が近づいてきて、「佐々木先生の息子さんですか?」と聞く。「ええ、C(バッパさんの名前)のことでしょう?」。それに対する答えを聞いて仰天した。「いえ、稔先生の方ですが」
 もう60年近くも前に死んだ父の名前が出されたのである。聞いてみると、父が教員をしていた金房尋常小学校の近くに住んでいたOさんで、子供のころ父にだっこされたこともあるという(1931, 2年頃のこと)。「背の高いキレーな人でしたよ」(確か私より4センチ近く高かったそうだ)。
 受講者のうち四人が親戚(最年長者はバッパさんの従妹、それにほぼ同年配の三人の又いとこたち)であるのに加えて、生前の父を知る人まで現れたのである。今年12月の命日まで、何とか父に関する小冊子を作ろうと思っているが、今日の老婦人にもぜひ父の思い出を書いてもらいたいものである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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