夕方、行きつけのスーパーに行ったら、どこかの婦人会らしきおばさんたちが割烹着姿で「新潟中越地震」の義捐金を募っていた。郵便局などに出かける手間を省いてくれるので助かる。というよりわが町にも、こういう奇特なグループや人がいるということが嬉しいし、有難いな、と思う。
話は変わるが、このところの寒さでふすまを閉めることが多い。ところが妻はときどき「けつ抜け」をする。面倒くさいので、いちいち注意などせず、黙って閉めることにしている。ところで「けつ抜け」という言葉は久しぶりに使う言葉だが、念のため辞書を見てみた。案の定無かった。思い起こせば、小さいころ、ふすまなど開けっ放しにしたまま部屋を出たり入ったりすると、「こら!けつ抜けてっと!」と注意されたものだ。とりわけ死んだ祖父幾太郎の言葉として記憶しているが、相馬弁だったのか、それとも我が家独特の言い回しだったのか。
そんなことを言えば、先ほど割烹着姿などと書いてしまったが、本当にそうだったのかどうか、怪しくなってきた。けつ抜けと同じく、昔の言葉やら記憶が意識の表面にせせり出てきたからそのように記憶したのか。特に今日のようなはっきりとしない空模様の中では、現在と過去のあわいが定かでないような気がする。あっそうか、これがぼけの始まりか。でもそうだとしたら、老いるということは決して嫌なことではなさそうだ。現実像に多少の歪みが生じるとはいえ、現実そのものがなんだか膨らんで豊かになったような気がするからだ。これ決して負け惜しみではありません。
※ いちいちことわるのも変だが、これからもときどき「モノディアロゴス」の規格(とりあえずはきっちり千字)外のものを気楽に書こうと思っている。後から、もっと気力が充実したとき、すでに書かれたものを使って「モノディアロゴス」として書き直すこともある、ということにしようと思う。