災い転じて…

思いがけない事態が重なって、来月下旬、中国に行くことになった。
 昨年十一月に大連で息子と結婚した中国人の嫁の在留資格申請に対して、四月末に不交付が言い渡された。まさに青天の霹靂だった。それまで在留資格とか国籍などというものと無縁だったが、ここに来てにわかに国境というものの冷たい非人間的側面を見せつけられた思いだ。かつての東西冷戦構造下の、国境によって引き裂かれる人間たちの悲劇が、もちろん私の場合それは主に映画を通じてのそれであったが、今回は他人事でないものとして目の前に突きつけられた感じだ。
 最近の日中関係の悪化の、いわばとばっちりを受けた感を否めないが、しかしそれでもかつてのバリバリの社会主義体制のころの中国からすれば、国境を越えての結婚が可能になっただけでも、これはこれでずいぶんと人間的になってきたのだろう。いやいや今回の場合はその逆だ。つまり今回の問題は、日本政府も暗々裡に認めているであろう、いわゆる水際での、「人を見たら泥棒と思え」式の、外来者に対する実に非情な対応である。つまりイランやイラク、あるいはフィリピンなどからの出稼ぎ外国人たちが日本の入り口で受ける差別的待遇のことである。いや出稼ぎ目当ての人たちはともかくとして、そのとばっちりを受けて、そうでない人たちまでが謂れのない差別を受けるときの無念さを味わわせられたのである。
 それで冒頭に言った中国行きとなった。来日が延びた嫁を慰め、合わせてご両親に挨拶するため、勤め先の関係で休みの取れない息子に代わって、私と家内が四泊五日の旅を断行することになったのだ。成田経由ではちょっとしんどいな、と思っていたら仙台―大連間の便が週二回あることを知り(インターネットのおかげ)、さっそく手配してもらった。ホテルも旧ヤマト・ホテル(現大連賓館)を予約できた。
 現在、妹夫婦の実家に世話になっている嫁と五日間行動を共にすることが、行けない息子には悪いが、家内ともども今から嬉しくてしょうがない。なかでもいちばんの楽しみは、撫順近郊の彼女の実家までの一泊旅行である。8時間近くの電車の窓から見えるであろう風景にもう心が向っている。だが今回の日程では、幼少期を過したランペイ再訪は無理で、それは次回にまわすことにした。いつもは腰の重い私の、今回の素早い反応、これはひとえに入管のおかげである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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