中国の呉儀(ウー・イー)副首相が今日の午後予定されていた小泉首相との会談をドタキャンして急遽帰国したようで、少なくとも政治面での日中関係は相変わらずギクシャクしている。なにも中国の指摘を俟つまでもなく、A級戦犯が合祀されている靖国で不戦を誓うなどというのは、どう考えてもコジツケに過ぎない。不思議でならないのは、日ごろから靖国参拝に反対している野党勢力が、少なくともマスコミ上ではこのところ沈黙を守っているのか、あるいは声が小さいことである。
外圧の尻馬に乗ると思われるのを嫌ってのことだろうか。もしそうだとしても、この問題にかぎらず最近の反対勢力のなんと謙虚でおとなしいこと。エラが張って意志の強そうな岡田民主党代表も、小泉首相の元気のよさに比べてなんと影の薄いことか。もともと私自身政治に疎いからでもあるが、岡田代表がどこの政党に所属するのか分からなくなって、急いでネットの新聞を調べに行ったほどだ。
ともあれこのところの日中関係の悪化は、個人的なこともあってなんとも気になる事態だが、いずれにせよ国の面子にこだわる愚かさにはほとほと呆れるほかはない。小泉首相が狭隘な国粋主義に凝り固まっているとはゆめ思わないが、しかし日本という国の存在感というのか誇りというのか、それを日の丸、桜、菊の花、靖国など理屈抜きに感情に訴えてくるイメージに安易に寄りかかりすぎているように思えてならない。靖国に関しては彼よりちょっとだけ賢明(?)だった中曽根もそうだったが、なにか安手で単純な愛国心に執着しているようだ。
いやこんなつまらぬことを書くつもりではなかった。実は反日デモについてのうんざりするようなステレオタイプの報道がなされているあいだ、心が洗われるような新鮮な感動を覚えつつ読み進めていた沈復の『浮生六記』(岩波文庫)について書こうと思っていたのだ。日頃より中国に対して子供じみた敵愾心を露骨にするどこかの知事の言う「民度の低さ」など恥かしくて口にできないような、実に完成度の高い自由で高貴な人間性の発露に感じ入っていたのだ。
二百年ほどむかし、清朝時代のある無名の読書人が書き残したこの手記を読むうち、武田泰淳が「中国文学と人間学」の中で言っていること(4/3の項参照)の真の意味が何となく分かるような気がしてきた。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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