カメラの話

五、六年ほど使ってきたデジタル・カメラ(Fine Pix 700)が先日とつぜん壊れてしまった。どこかにぶつけたとか落としたなら、それなりに諦めがつくのだが、いつ、どんな理由でかも一切分からなぬままに、あるときふいに写らなくなってしまった。これはこれで気持ちのいいものではない。ともあれ電化製品の量販店に持っていって修理をお願いすることにした……
 結末は予想どおり。「お客さん、これは液晶部分をすっかり取替えなきゃならんから、時間的に言うと約一月、値段的に言うと2、3万かなあ」
 もちろん修理に出すことは諦めた。中国行きのこともあるので、さっそく次のカメラを探さなければ。今までだったら、下手な比較をしても頭が混乱するだけなので、たいてい出向いた店の陳列台からその時いいと思ったものを勘を頼りに選んでいたが、いまどきインターネットを利用しないという手はない。
 その経過は省くとして、実にいいデジカメに出会ったのだ。京セラの「コンタックスi4R」である。シルバー、ブラック、レッドと三色のボディーが用意されているが、ちょっと迷った末にブラックを選んだ。「ガラスの香水壜のような、宇宙の闇のような深みのある漆黒。極限まで磨き上げられた金属の表面が、触れるのもはばかるような雰囲気を振りまきます」という宣伝文もあながち誇張ともいえないほどの出来である。幅9.4、高さ3.85、奥行き2.1センチの、世界最小ボディーながら、有効画素400万、録音つきの動画も撮れる優れものである。
 と、まるで宣伝マンさながらの口調になってしまったが、白状すれば、まさに少年時代のカメラへの熱狂がとつぜんぶり返したような状態になってしまったのである。きっかけは、ともかくそのデジカメに装備されているカール・ツアイスの「テッサーT*、F2.8」という幻のレンズである。
 再度白状すれば、その熱風のようなカメラ熱はさらに嵩じて、ローライ・フレックス2.8Fを、さらにはライカM3までをも購入せしめたのである。ライカ、ローライはかつてのカメラ少年にとっては夢のまた夢、一生手にすることなど思いもよらぬことであった。それがやっとこの歳になって……
 でもご安心あれ、それらはいずれもミニチュア・サイズのレプリカ・デジカメ。夜な夜な思いきり目を近づけて、かつての垂涎の的(まと)たちとの逢瀬を楽しんでいるだけ(気色悪ー!)。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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