黄瀛(こうえい)について

先日「朝日新聞」に載った王敏女史(法政大学教授)の文章(7・18「黄瀛と「もうひとつの祖国」」によって初めて黄瀛(1906-)の存在を知った。中国人を父に、日本人を母に重慶で生まれ、大正末期から昭和初期にかけ彗星のように詩壇に登場し、魯迅、宮沢賢治、高村光太郎、草野心平、木下杢太郎、井伏鱒二、木山捷平らと交流したが、やがて日中戦争勃発、のち国民党将校として共産党軍の捕虜となり、そして狂乱の文化大革命に巻き込まれるという数奇な運命をたどった詩人である。現在も病身ながら故郷重慶で98歳の余生を送っているという。
 その彼の詩集『瑞枝』が今日届いた。昭和9(1934)年初刷4百部でボン書店から出たものの復刻版(蒼土舎、1982年)である。高村光太郎が「序」を書き、木下杢太郎が8ページにもわたって「作者黄瀛君に呈する詩」を寄せている。巻頭には軍服姿の著者近影と高村光太郎作のブロンズ彫刻(上の写真)が載っており、第一詩集『景星』(1930)に次ぐ第二詩集ということだ。
 実はまだ詩集の中身を読んでいない。ちょっと怖い気がするのだ。期待はずれだったらどうしよう、という惧れからかも知れない。しかし変な話だが、杢太郎の次の言葉を読んだ瞬間、本物の詩人に会えるという確信みたいなものを感じたのである。

        ……然し惟へば、
        あなたとわたくしとの間には、第一、齢の隔が有る。
        第二に民族の差別がある……」さうかこちながら、
        今わたくしはあなたの詩集を読み耽ってゐます。
        時は八月十四、朝からの快晴、
        日曜日の青空には蜘蛛の絲が光り、
        一臺の飛行機が天門の坦路を滑る。

 ところで黄瀛の親しい友人の中に映画監督の亀井文雄がいたことを、『瑞枝』と同時に届いた佐藤竜一の『黄瀛』で初めて知った。我が家のすぐ側に墓があるあの亀井文雄である。詩人に軍服は似合わない、と思ったが、文化学院時代以来の友人亀井があの反戦というか厭戦映画『戦ふ兵隊』を作るに際して親友黄瀛のことが頭にあったらしいと知って少し安心した。それに陸士出とはいえ、彼は通信兵だったらしいから。
 ともあれ、今まで思っても見なかった一人の詩人との出会いに正直わくわくしている。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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