武田泰淳の「従軍手帖」

文芸評論家の川西政明氏が、今日の「朝日新聞」で、武田泰淳の戦時日記について書いている。つまり泰淳の一回目の従軍中、淮河(中国中部)のほとりで、まず分隊長の命令で二人の中国人を射殺、次いである集落で老農夫と老農婦に向かって引き金を引いて殺した記録を破棄せず、生涯その事実を背負い続けたと報告している。
 そのことは「審判」と言う作品に影を落としているそうだが、正直言って私の記憶から「審判」の内容は消えている。それよりも名作「ひかりごけ」のあの強烈な印象には、泰淳自身の実体験を前提とせざるを得ないほど生々しかったことを思い出した。つまり彼の戦時体験ならびにその贖罪の意識は、個々の作品というより武田泰淳の文学全体の根底に色濃く流れているという以前からの考えを再確認したまでである。
 それよりも気になったのは、川西氏が泰淳の苦悩をいささか軽めに扱っている点である。泰淳が脳血栓で倒れたあと、吉祥寺の埴谷邸で竹内好に「審判」で描かれたことは実体験かどうかと聞かれて、泰淳が長い沈黙を続けたときのことを川西氏は次のように「まとめ」ている。「沈黙に耐えきれなくなったのか、好がうーむと大きく唸ったあと、〈そうか〉と言った。その時、好は泰淳の苦しさの根源に触れた。泰淳は好が自分の苦しさを理解してくれたことに感謝する顔つきを見せた。泰淳が生涯背負った罪と罰はその時、清められた」。
 「感謝する顔つきを見せた」というのは誰の判断か。そして「清められた」と判定しているのは誰か。文脈からすれば、双方とも川西氏の見立てなのだろう。しかしそう簡単に「清められた」ら、さぞかしビックリするのは泰淳その人ではなかろうか。
 日本語授業のテキストは昨日から「モノディアロゴス」の中の旧満州に触れた文章になった。五歳の私が隣の満族の小母さんに両手の親指と人差し指で三角形を作って干し杏入りちまきをねだるくだりを読んでいる時、以前からいつか聞こうと思いつつ躊躇っていたことを聞いてみた。「頴美ちゃんの親戚や知人で戦時中、日本軍に殺された人はいなかったの?」 しばらく考えたあとでの彼女の答えに愕然とした。不安が的中した。たぶん一族では封印された過去なのであろう、曾祖母かその姉妹か彼女自身はっきりとは教えられなかったそうだ。しかしその先祖が逃げ遅れた妊婦であったことは間違いないらしい……

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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