竹内好遠望

彼の作品をほとんど読まない現時点での大まかな印象を言えば、得体の知れなさだろうか。そしてまかり間違えば(?)かなり右よりの国士にもなりそうな不気味なところ。理論武装をほどこさない私のような生半可で心情的な中国贔屓など、ひとたまりもなく吹き飛ばされてしまうような膂力の持ち主。
 吉川幸次郎とか貝塚茂樹とかの主に京都の学者たちの膨大な知識の量と張り合うほどの胆力を備えて旗揚げ(戦前、武田泰淳たちと始めた中国文学研究会)しただけのことはあったらしい。その時もリーダーだったし、戦後『中国』創刊のときも指導者的な存在だったのは、それだけの力量に恵まれていたわけであろう。それがどのような内実のものか、現時点では分からない。
 それにしても、わが国におけるフランス、イギリス、ドイツなどの欧米研究史とは比較にならない歴史と蓄積を持った中国研究の歴史それ自体が茫洋としてつかみ難いが、その中での竹内好の位置や評価などさらに判じ難い。
 いままで私の彼に対する関心が持続してきたのは、主に魯迅との関連からである。つまり彼の魯迅論をまだまともに読んではいないのだが、その入れ込み方は尋常でなく、しかもそれが本格的というか、つまり贔屓の引き倒し的なところが微塵も感じられないのが素晴らしい。
 最近ドイツなど欧米での彼の再評価の機運が高まっているらしいし、手には入れたがまだ読んでいない若い中国人研究者の竹内論もある。たぶんそれは欧米一辺倒だった従来の日本の対外政策、文化政策に顕著であった政治的・文化的バイアス(偏重)などを根本から見直す視点、特にアジアを基軸とした視点が竹内の思想に内在しているかららしい。従来はそれが戦前の大東亜共栄圏思想と容易に重なるがゆえに、あまりまともに主張する人も、取り上げる人もいなかった領域だった。
 たぶん私の中には、竹内好の思想を学ぶ過程で、旧満州建国の際のまやかしの五族協和や楽土建設の夢に踊らされた若者たち(私の父や叔父たちがそうであった)の無念を晴らすヒントがどこかで見つかるのではと願っているのかも知れない。
 ともあれ以上が、竹内好について現在私が持っているイメージやら思いのすべてである。それらがとんでもない思い違いなのか、それともかなりの確度で実像に迫っていたのか、それをいちいち確認していくのがこれからの課題である。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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