ミルクの死

午前十一時きっかり、ミルクが死んだ。その少し前、長野の穎美ちゃんから電話をもらい、ミルクは少しずつ良くなってきたよ、と話したばかりだった。相変わらず何も飲まず食べずの状態からなんとか抜け出そうと、昨夕、K獣医から目薬をもらい(風邪のためかほとんど眼を開けなかったので)、次いで六号線沿いのペットショップで栄養剤を買い(獣医のところでは切らしていたので)、何度かスポイドで口から流し込むなどした結果、今朝は心なしか呼吸もしっかりするように見え、これで少しずつ快方に向かうと信じていた矢先だったのである。残念でたまらない。
 たとえば獣医のところで二度目の(ココアは二度打ってもらった)注射を打ってもらうなど、もう少し手を尽すべきではなかったか、と後悔する気持もあるが、しかしこれがミルクの寿命だったのだと諦める気持の方が強い。人間の場合も、いや自分自身の場合もおそらくそうであろうと日ごろから思っているのだが、生きとし生けるもの、すべていずれ死を迎えるべきもの、延命のため打てる手段をすべて尽すのも一つの「生き方」だが、従容として死を迎えるのも一つの「生き方」、いや「死に方」ではなかろうか。だから基本的には「臓器移植」は好きでない。他人に対しては認めてもいいし、あえて反対もしないけれど、端的に、理屈抜きに好きでない、そして自分にはしてもらいたくない。愛する人に対してのものだとしたら…迷いに迷ってやはりしてもらいたくない、と言うだろう、と思う。
 二〇〇〇年六月初旬の生まれ(のはず。当時は野良の子だったから、正確な日付は分からない)だから六歳五ヵ月の短い生涯だった。野良の「おかあちゃん」から生まれた子供たちの中で、もしかして(人間の眼から見て)いちばん頭が悪かったかもしれない。でも小さい体ながら気が強かった。体の大きな弟のココアと半分ふざけあっての取っ組み合いでは、最後は体力負けして、もうやめたとばかり戦線離脱がつねだったが、ふだんは姉さんぶりを発揮して、ココアを先導するようなところがあった。
 昼ごはんの後、妻の見守る中で、冷たく、小さくなった遺体を庭に埋めた。ちょうどすっぽり入るダンボールの箱の中に、折りたたんだ洗いざらしのバスタオルでくるんで入れ、死出の旅のお弁当のつもりで、いつも食べていた餌を口の側に置いてやった。獣医さんのところで注射を打ってもらう際に彼女に引っかかれた上唇の傷がちょっと眼には分からないほどになったが、こうなったらミルクの想い出としてはっきりと分かる傷痕であってもよかったのに、と思う。
 この十日間ほど、側に寝ているミルクがどうして元気がないのかを忘れるので、そのたびに風邪のことを思い出させてやらなければならなかった妻だが、ふと見ると眼が充血している。ミルクのこと?、と聞くと、そうだ、と言う。でもね、いまはもう寒さも痛さもない天国で幸福になってるんだよ、と言うと、違うよ、天国は私たちの心の中にあるんだよ、と答える。そうだよね、ミルクはいま私たちの心の中に生き始めたんだよね。それで急いでパソコンのなかの「死者のカレンダー」にミルクのことを書き加えた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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