一九四五年八月十五日、つまり敗戦(終戦などいう曖昧な表現は使わない)の日、私(というより私の一家)は、着の身着のままそれまで住んでいた土地や家を追われて異国をさまよう無数の避難民の中にいた。
一家とは言っても、それより二年前に父は帰らぬ人となっていたから、十歳の兄とそれぞれ二つ違いの姉と私を引き連れての母子家庭である。五日前まで、一家は旧満洲熱河省(現在は河北省、遼寧省、内モンゴル自治区に分割編入)の灤平(ランペイ)という辺境の地に住んでいた。首都の新京(現在の長春)や奉天(現在の瀋陽)のような帝国の中枢部にいたなら、もっと早い段階で偽帝国終焉の始まりを知ったであろうが、それでも蚤・しらみが死期まぢかの動物からいち早く死の臭いを感知するように、八月十日には、町外れの鉄路に集結した日本人コミュニティの逃避行が開始された。だが私の一家は、そのころ朝陽にいた母の弟の一家と合流するため、約四年のあいだ暮した灤平を皆から一日遅れてトラックで脱出した。結果としてそれが一家に幸いした(貨物列車で逃れた人たちは悲惨な目に遭ったらしいから)。
ともあれ決定的な敗戦の事実を知ったのは、日本人のとりあえずの集結地の一つ錦州にたどりつく前、おそらく朝陽の叔父の家にいたときではなかったか。そのときの記憶はほとんど消えたが、コウリャン畑の上空に飛来したソ連の戦闘機を見上げた時の、気の遠くなるようにどこまでも続く青空のことはぼんやり覚えている。
引き揚げ時の苦労はあるにはあったが、そこにいたるまでの地獄のような逃避行も(沖縄戦と同じく、皇軍が臣民を裏切り見捨てた事実を決して忘れてはならない)、大多数の日本人が味わったような空襲の恐怖も知らぬまま戦後の日本を生きてきた。だからであろうか、建国以来初めての大規模な海外移住とそこからのエクソダス(旧約時代のユダヤ民族のエジプト脱出に匹敵する)という日本民族の稀有な体験の意味も重大性も特に考えずにこの歳になってしまった。しかし二年前、父の追悼文集を作る過程で、三十三歳の若さで病死した父の無念さに初めて気がついた。満洲帝国の下級官吏として無辜の民から土地を取り上げ強制的に集落を作らせる政策(ゲリラ戦を恐れて)に加担させられた父、早くから五族協和と王道楽土の欺瞞に気づき苦しんだ父(母の記憶によると、父は生前、省公署の役人たちとの会合で、「日本人はすべて悔い改めて出直すべきだ」と悲憤慷慨の言葉を繰り返したそうだ)。
残念ながら、日本はいまだに悔い改めていないどころか、一部に、いや中枢部にまたぞろキナ臭い動きが始まっている。だから自分のこれまでの無思慮・無反省を愧じ入りつつも、次代を背負う若者たちに可能な限り伝えていきたい。どのような理由をつけようとも、すべての戦争は狂気であり人間性の全否定である、戦争の「できる」普通の国を目指すなど美しいどころか愚かさの極み、没義道そのものである、と。
(「九条ブログはらまち」№27)